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カテゴリ:つぶやき
最近よく見聞きする本でちょっと気になるものに、『医療崩壊』というのがあります。
サブタイトルにある「立ち去り型サボタージュ」という言葉を一度見て心に引っかかりました。 医師不足の問題は、毎日、新聞やテレビなどで目にします。 特に、産科や小児科の勤務医の不足は深刻で、過疎地に限らず都市部でも、深刻な事態が発生していると聞きます。 医師の数の絶対的な不足に加えて、超過勤務など労働条件の悪さや医療訴訟における過度の責任負担のストレスなど、さまざまな要因があって、勤務医を辞め開業医へという流れがあるというのは、実際自分の身の回りでも感じることがあります。 何年も総合病院で、消火器内科と皮膚科で診てもらっていましたが、おそらく大阪府の方針で、ある年に院長が変わると、パタパタッと多くの医師がその病院を離れていき、私の主治医も内科の先生がほかの自治体の総合病院の院長として迎えられることになり、出て行かれることになりました。 それをきっかけに私もその病院に通院する機会を失ったのですが、しばらくして、皮膚科の先生も辞められ、開業されたことを知りました。 また今診てもらっている脳神経の方の先生は、以前は府立病院の部長先生でしたが、今はクリニックに週2日通うだけというスタイルになっています。 アレルギーの総合病医院に2度にわたって1ヶ月ほど入院したのでよく分かるのですが、公立病院に勤務する医師というのは、本当にタイヘンです。 退院後は外来の診察時も先生の苦労がよく分かりすぎて、少々のカラダのつらさなど言ってられないと思ってしまったほどです。 私の主治医の場合は、個人の事情よりも、公務員なので府の財政とか方針とかによって、立場を変えざるを得なくなったのではと勝手に思っているのですが、 どんな事情にせよ、医療従事者が、今いる医療現場を離れることになったときに、その自身の行為を「サボタージュ」だと捉えることって、あるのだろうか? もっと言えば、・・・ありだろうか? 今の医療現場の厳しさは、少しは分かるつもりだけれども、それでもやっぱり立ち去ることはただ立ち去るだけであって、そこにサボタージュという意義があるというのは、おごりではないだろうか。。と思うのです。 事情も身分もまったく異なりますが、私自身、ほんの短いあいだですが働いていた仕事は社会保障関係で、毎日その日の生活を真剣に考えている人たちと接していたので、辞めたことは選択の余地がなく仕方のないことだったのだと自分に何度言い聞かせても、いまだに罪悪感が消えないし、何人もの人の名前や顔が浮かんできます。 仕事をしているときは、いろいろ知ることがあっても問題点が分かっても、所詮公務員だし守秘義務があるしと思っていました。 お医者さんも、日々たくさん思うことはあっても押し殺しているのだとは思いますが、でも、さまざまな事情で黙って立ち去るという選択をしたのなら、それをサボタージュというべきではないと思います。 それでは何も改善はされないからです。 弱い立場の人のことを知る力のある人は、知っていることをもっと言葉にして、行動しなければ、これからも何も変わらないのではないかと思います。 ______________________________________________________________________________ 昨日の晩ごはんは、ジンギスカン。 ※今回購入したお店は【チョッとお寄りて南信州】ですが、現在送料100円で共同購入できるのは、こちらの直営店から。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2007.04.30 13:08:42
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