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慶文堂 ひま人日記

*2 国際関係の拡大~私的考察

 さてここで後の日韓関係に深く関与する『高宗』と『大院君』の登場です。

 で、ここに出てくる『勢道政治』と『三政の紊乱』とは何ぞや?

 産経Web『教育を考える』に、このような説明がありました。

(引用開始)
(前略)「勢道政治が長く続き政治の綱紀が乱れ、不正腐敗に侵された貪官汚吏たちがあふれるようになった。彼らは農民たちにいろんな名目の税金を課して取り上げた。これによって三政のびん乱はいっそう深まった」

 「勢道政治」は同族による権力独占の派閥政治のことで、「三政」は田政、兵政、還穀をいい、主に国の財政を意味する。

 「政治の乱れ」「役人の不正腐敗」その結果としての「財政混乱」が国の乱れと疲弊を招き、近代化への対応で遅れにつながったということだろうか(以下、略)

(引用終わり)


 「政治の乱れ」「役人の不正腐敗」って、なんだか現在の中国みたいだなァ・・・などという事はまあいいとして、内政は混乱し、外からは列強の圧力が増し、と大変な時期だったようです。
 それに対処するために王権強化政策を推進し、諸外国の通商修好要求を拒否した、と。そのためにも同族による権力独占の派閥政治を止めて能力主義によって人材を登用し、自身の政治基盤を確保し、専制王権を強化しようとしたのですか。

 なかなかやりますね。

 さらに財政建て直しのために旧来の土地・税制度を改革し、農民に対する両班支配層の不当な抑圧と収奪を禁止し、民生を安定させることに寄与した。
 その一方で王室の威厳を誇示するために大規模な土木工事を行い、それに伴う費用・材料等を徴収し、その結果、両班から恨まれ、さらには農民からも恨まれたのですか。


 何時の世も改革者は恨まれるものです。そしてさらには列強による外圧ですか。

>丙寅洋擾と辛未洋擾


 『天主教』って、これまた古い言い方ですなァ。つまりは『キリスト教』です。
 列強が他の国を植民地にする時に良く使う、例の手ですかね。
 キリスト教自体は別にかまわないのですが、それを利用する輩がいるもので・・・。

 
 あらかじめキリスト教の神父様をターゲットの国に派遣して、キリスト教を布教させる。彼らはキリスト教だけではなくて実利(医学・建築・教育など)も同時に教え、実践し、西洋の進んだ文物を通して西洋の素晴らしさなどを教えこむ。良いことだらけのようですが、でもこの場合、問題になるのは『神の御前での平等』です。

 神の前では領主も農民もありません。ましてや奴隷もありません。皆等しく『平等』なのです。これはいったいどういう事か?それはまさしく、階級社会の否定です。そしてもっともその恩恵にあずかる、というか憬れ熱中するのが虐げられた者たちであり、多くの一般民衆です。
 支配者層にとってこれほど恐ろしく、厄介なものはありません。

 最初は歓迎します。彼らは西洋の進んだ文物を手土産にしてやってくるのですから。
 しかも大院君の場合は、フランス人宣教師の斡旋でフランス勢力を引き入れ、ロシア勢力の南下を牽制するのに利用しようとしたぐらいですから。だが、それも失敗します。


>その交渉は失敗に終わり、折しも清での天主教弾圧の情報が伝えられ、儒生の強力な要求もあって、大院君は天主教に対して大々的な弾圧を加えるようになった。丙寅迫害と呼ばれるこの弾圧で9人のフランス人宣教師と千人の信徒が処刑された。


 この辺りはWikipediaに詳しいので、引用してみます。


(引用開始)Wikipedia【丙寅教獄(へいいんきょうごく)】より
丙寅教獄(へいいんきょうごく)とは、1866年に朝鮮で起こったキリスト教弾圧事件。

天主教大弾圧、丙寅邪獄、丙寅教難ともいう。在朝鮮外国人宣教師が処刑された事件で、ベルヌー司教ほか9名のフランス宣教師、8000名におよぶ信者が処刑された。捕盗大将李景夏の活動が有名。

フランスはこの事件へ抗議して、軍艦7隻・兵力約1500名を派遣し、殺害に対する賠償、責任者の処罰、通商条約の締結などを要求して江華府を占領した。大院君はこれらの要求を拒否し、撃退した。 - 丙寅洋擾(1866年)。

李氏朝鮮(1392年-1910年)は19世紀、キリスト教を禁じたが、宣教師は潜入、信者は絶えなかったので、何度か弾圧を行っている。
1801年 - 辛酉教獄 : 清国人宜教師周文謨ほか300名あまりを処刑
1839年 - 己亥教獄 : フランス人宜教師アンベールほか200名あまりを処刑
1846年 - 丙午教獄 : 金大建ほか20名あまりを処刑

(引用終わり)


 これを見ると、大院君が処刑したキリスト教徒は8千人となっています。韓国の歴史教科書では千人。ずいぶん違いますね。これも歪曲の一例でしょうか?
 これに怒ったフランスが江華府を占領して各種の要求を出しますが、大院君はこれを拒否し、撃退しました(1866年、丙寅洋擾)。さらにアメリカ相手の『辛未洋擾』(1871年)。
 あくまで鎖国を貫き通したかったようです。そして彼に対する後世の評価がこれ。


>大院君の通商修好拒否政策は外勢の侵略を一時的に阻止することには成功したが、朝鮮の門戸開放を妨げて近代化に後れる結果をもたらすことになった。


 あの時点で『朝鮮の門戸を開放』していたら、どうなっていたのでしょうか?果たしてここに書いてあるように、いちはやく『近代化』を成し遂げられたのでしょうか?
 遅れたとはいえ、門戸を開放した朝鮮はどうなったか?それはこれから見ていこうと思います。



>江華島条約と開港
 10年間執権していた大院君が権力の座から退いて閔氏一族が台頭すると、朝鮮政府の国内外政策は少しずつ変化しはじめた。



 大院君が権力の座から退いて、いよいよ閔氏(閔妃の一族)一族が台頭してきます。


>このとき、国内では開港反対論が優勢だったが、開港の必要性を主張する動きも芽生えていた。朴珪壽、呉慶錫、劉鴻基などの通商開化論者は、当時朝鮮社会が門戸開放のための内的準備ができていたと見なかったが、列強の軍事的侵略を避けるためには開港が不可避であることを主張した。このような通商開化論者の勢力は大院君政権の崩壊とともに成長し門戸開放のための条件をととのえた。


 日本の幕末における開国論者(勝海舟・坂本龍馬・吉田松陰・高杉晋作など)のような人たちがいたんですね。そして彼らが中心になって開国の準備を始めた、と。この辺りまでは日本と似ています。


>一方、明治維新以後、近代国家の体制を整え資本主義化を急ぐとともに海外進出を試みていた日本は、雲揚号事件を起こし朝鮮の門戸開放を強要してきた。そうして朝鮮はついに日本と江華島条約を結び門戸を開放するようになった(1876年)。


 ここに出てくる『雲揚号事件』とは何ぞや?例によってWikipediaを参照してみましょう。



(引用開始)Wikipedia【江華島事件】より
江華島事件(こうかとうじけん、こうかじまじけん)は、1875年(明治8年)9月20日に朝鮮の江華島付近において日本と朝鮮の間で起こった武力衝突事件である。日本側の軍艦の名を取って雲揚号事件とも呼ばれる。

江戸時代後期に開国し、明治新政府が成立した日本では1868年(慶応4年)12月19日に新政権樹立の通告と国交と通商を求める国書を持つ使者を李氏朝鮮政府に送ったが、国書の中に「皇」「勅」の文字が入っており、冊封体制下では「皇」は中国の皇帝にのみ許される称号であり、「勅」は中国皇帝の詔勅を意味していたので、朝鮮側は受け取りを拒否した。その後何度も国書を送ったが、朝鮮側はその都度受け取りを拒否した。

困った日本側は、先に清国と日清修好条規を締結する。その後、日本と清国の間で領土問題(台湾出兵参照)が発生し、日本の強硬な態度に驚いた清国は朝鮮に国書の受け入れ交渉をするよう指示し、ここで交渉は再開されるはずであったが、1872年(明治5年)5月外務省官吏・相良正樹は、交渉が進展しない事にしびれを切らし、それまで外出を禁じられていた草梁倭館(対馬藩の朝鮮駐在事務所)を出て、東莱府へ出向き、府使との会見を求めた。(倭館欄出)

更に同年9月、それまで対馬藩が管理していた草梁倭館を日本公館と改名し外務省に直接管理させる事にした。 この日本側の措置に東莱府使は激怒して、10月には、日本公館への食糧等の供給を停止、日本人商人による貿易活動の停止、日本を無法の国とする毎日広告を掲示、等々の敵対行為を図った。

そのため日本側で有名な「征韓論争」を巻き起こす事となった。 これは草梁倭館は、朝鮮政府が対馬藩の為に建て使用を認めた施設だった事、対馬藩は日本と朝鮮に両属の立場にあったからである。

1872年9月対馬藩と交替する為に来朝した花房義質が、軍艦春日に乗ってきたことから、日本を西欧勢同様、衛正斥邪の対象として、前述のように食糧の供給を停止した。大院君は、「日本人は何故蒸気船で来て、洋服を着ているのか。そのような行為は華夷秩序を乱す行為である」と非難し、交渉が暗礁に乗り上げると、日本では朝鮮出兵を求める征韓論争など出兵問題が政治問題化するようになる。

日本は対馬を通じて朝鮮に対して開国を求める交渉を行う。朝鮮では1873年に大院君が高宗が成人に達したことを理由とした上訴により失権したことにより、高宗妃の閔氏一族の政権に代わり、釜山官憲の高官なども交代、鎖国攘夷政策からは軟化したものの交渉は難航。

1875年釜山に於いて東莱政府と森山理事官との間で、初めての政府間交渉が持たれたが、宴饗の儀における日本大使の大礼服着用と、同大使が宴饗大庁門を通過することについて、東莱政府が承認しないなどの為紛糾、清国大使には、これを認めており明らかな対日差別である。 因循姑息な李朝外交に翻弄された日本政府は、遂に痺れを切らし、小艦を釜山に派遣し東莱府館員を艦上に招待し発砲演習を見せつけることにより、局面打開を図った。

強硬派から(ペリー同様嫌がらせのために)測量や航路研究のためとし朝鮮近海に軍艦を派遣して軍事的威圧を加える案が出ると、外務大輔の寺島宗則は太政大臣三条実美や右大臣岩倉具視の了承を得てこれを承認、海軍大輔川村純義に『雲揚』『第二丁卯』の二隻の軍艦を派遣させる。

日本の軍艦は5月25日に無許可で釜山へ入港し、射撃演習などの威嚇行為を行うと朝鮮側は抗議を行う。

1875年9月20日、日本の海軍少佐井上良馨は雲揚号で航海中、飲料水の欠乏により淡水補給のため、自らボートに乗りこみ水を求めに陸に向かっている途中、江華島の草芝鎮沖にさしかかった際に、島に設置された第三砲台から砲撃を受けたので、急ぎ雲楊号へ帰艦し江華島砲台を破壊、永宗島の要塞を占領する。日本側の死者2名に対して朝鮮側の死者は35名と言われている。

この事件が朝鮮政府にあたえた衝撃は大きく、変革を拒否する鎖国攘夷勢力の反対をおさえて日本との国交回復を検討することになり、翌1876年に日朝修好条規(江華条約)が締結された。

(引用終わり)


 かなり長いですが、重要な事なので全文を引用いたしました。
 韓国の教科書を読むと、日本が一方的に悪いかのような書き方をしています。


>明治維新以後、近代国家の体制を整え資本主義化を急ぐとともに海外進出を試みていた日本は、雲揚号事件を起こし朝鮮の門戸開放を強要してきた。


 雲揚号事件がどのようなものか?何故起こったか?そんな事の説明は無く、とにかく日本が強引に、武力を背景にして『朝鮮の門戸開放を強要してきた』、としか書かれてありません。

 
 まず日本政府は新政権樹立の通告と国交と通商を求める国書を持つ使者を何度も李氏朝鮮政府に送ったが、その都度、李氏朝鮮側から拒否されています。
 いちはやく開国して近代社会の仲間入りをした日本国に対して朝鮮側はあくまで拒否し、日本側・朝鮮側双方の嫌がらせ?の末、外務大輔の寺島宗則は海軍大輔川村純義に『雲揚』『第二丁卯』の二隻の軍艦を派遣させる。


>日本の軍艦は5月25日に無許可で釜山へ入港し、射撃演習などの威嚇行為を行うと朝鮮側は抗議を行う。

1875年9月20日、日本の海軍少佐井上良馨は雲揚号で航海中、飲料水の欠乏により淡水補給のため、自らボートに乗りこみ水を求めに陸に向かっている途中、江華島の草芝鎮沖にさしかかった際に、島に設置された第三砲台から砲撃を受けたので、急ぎ雲楊号へ帰艦し江華島砲台を破壊、永宗島の要塞を占領する。日本側の死者2名に対して朝鮮側の死者は35名と言われている。

この事件が朝鮮政府にあたえた衝撃は大きく、変革を拒否する鎖国攘夷勢力の反対をおさえて日本との国交回復を検討することになり、翌1876年に日朝修好条規(江華条約)が締結された。



 似てますねェ。幕府の攘夷令に従って馬関(下関)海峡を通過する外国船を砲撃し、その報復による外国の軍艦の攻撃で短時間のうちに砲台を占拠され、その敗北によって外国勢力の力を見せつけられて和睦した長州藩と。
 長州藩は、その後同じように外国勢力と闘って敗れ、彼らと手を握った薩摩藩と連合し、江戸幕府を崩壊させるのですが・・・お隣の国、韓国ではそうはならなかったようで。


江華島条約はわが国が外国と結んだ最初の近代的条約であったが、これは不平等条約であった。

 これは間違いありません。間違い無く不平等条約です。が、これを以って、

>朝鮮に対する清の宗主権を否認することによって、日本の朝鮮侵略を容易にしようとするものであった。
>(測量は)単純な通商交易の経済的目的を超えて政治的、軍事的拠点を作ろうとする日本の侵略意図をあらわにしたものだった。
>治外法権条項を設定することによって、朝鮮に居住する日本人の不法行為に対する朝鮮の司法権を排した。とくに、治外法権、沿岸測量権などは朝鮮に対する主権侵害だった。


 
 などの事柄が『日本のせい』である、という主張は通りません。国際社会において、国際法(万国公法)に対する『無知』という事はそれだけで損をします。立場を悪くします。それが分からなかった当時の朝鮮の支配者層を恨むべきであって、日本を恨むのは筋違いです。


>日本は過去に日本が開港するとき、アメリカ、イギリスなどと結んだ不平等条約をそのままわが国に強要したのだった。


 たとえ数人でも政府内に国際法に通じた人物がいれば、こんな事にはならなかった事でしょう。すぐ隣に『日本』という、生きた教材があるのだから。
 それを差し置いて『日本のせい』『日本はずるい』などというのは、それこそお門違いというものです。
 当時『列強』とされた国々とそうでない国とは、立場にこれほどの開きがあったのです。


 日本自身が締結した不平等条約『日米修好通商条約』(1858[安政5]年)改正について、日本の教科書(新しい歴史教科書)に、こんな文章が載っています。


(引用開始)
条約改正への苦闘/p210

40年がかりの条約改正

 欧米諸国はそれでも,日本がまだ近代国家としての形を整えていないことを理由に,なかなか条約改正に応じようとはしなかった。日本は,あくまで欧米並みの制度を取り入れることによって,対等な扱いを受けることのできる国になろうと必死の努力を重ねた。1889年,日本が自前の憲法を制定した動機の一つは条約改正だった。
 1894(明治27)年,日清戦争が始まる直前に,イギリスは日本の近代化の努力を認め,ロシアの進出に対抗することをきっかけに,日本との条約改正に同意し,治外法権を撤廃した(日英通商航海条約)。その後,日清戦争に日本が勝利すると,アメリカをはじめ各国も治外法権を撤廃した。
 しかし,経済発展に必要な関税自主権を含む完全な平等条約が実現したのは,日本が日露戦争に勝利したあとの,1911(明治44)年のことだった。1871年の岩倉使節団の交渉から40年の歳月がたっていた。

(引用終わり)


 悔しかったら、近代化して国力をつけろ!富国強兵を成し遂げてみろ!そんな所でしょうか。不平等条約の改正は、自分たちの手で勝ち取るべきものなのです。
 だがそんな事は韓国の歴史教科書には一言も書かれていません。とにかく『日本が卑怯な手を使って不平等条約を結ばせたんだ』というような事しか書かれていません。自分たちの未熟さは棚に上げて。



>各国との条約締結

朝鮮は江華島条約で日本に門戸を開放した後、西洋諸国に門戸を開放した。一時武力で朝鮮の門戸を開放させようとして失敗したアメリカは、朝鮮が日本と条約を結ぶと、再び朝鮮との修交に関心を持ち日本に斡旋を要請したが、成功しなかった。

 この頃、ロシア勢力の南下に対応して、朝鮮はアメリカと連合すべきだという内容の黄遵憲の『朝鮮策略』が国内の知識層に流布して、アメリカと外交関係を持つべきだという主張も起こっていた。結局、ロシアと日本勢力を牽制して、朝鮮に対する宗主権を国際的に承認させる機会をねらっていた清国の斡旋で、朝米修好通商条約が締結された(1882年)。

 朝鮮が西洋諸国と結んだ最初の条約である朝米修好通商条約では、両国中一つの国が第三国の圧迫を受けた場合に相互に助け合うと規定していた。しかしこの条約も領事裁判のために治外法権と最恵国待遇を規定する不平等条約だった。アメリカと条約を締結した朝鮮は、続いてイギリス、ドイツ、ロシア、フランスなどの諸国とも外交関係を結んだ。



 今度はアメリカですか。
 Wikipediaではどう書かれているのでしょうか?



(引用開始)
初期の接触(略す)

条約の締結


この頃清国駐日公使館参事官・黄遵憲は「朝鮮の主敵はロシア帝国であるから朝鮮は清国、日本、米国と連合すべしと」する『朝鮮策略』を著しており、清国の仲介もあって高宗(在位1863年~1907年)の朝鮮政府は米国との交渉に乗り気だった。1882年5月22日、馬建忠の仲介により済物浦(現仁川)沖の米軍艦上で朝鮮側正使申ヒョン、副使金弘集と米国提督シューフェルトの間で朝米修好条約が調印された(朝鮮の暦では4月6日)。李鴻章は仲介にあたり条約に清国の朝鮮に対する宗主権を明文化を提案したが、シューフェルトは事実にそぐわない提案であるとこれを拒否し、日朝の江華島条約同様、朝鮮を自主の国と定め、両国の一方が第三国の圧迫を受けた場合には相互に助け合うと規定した。 しかしこの条約も、領事裁判権など治外法権と最恵国待遇を規定する不平等条約だった。 この条約は1883年1月米国上院で批准され、最初の朝鮮駐在公使としてフートが任命された。 朝鮮側も外交使節を米国に派遣している。
[編集]

条約の影響

この条約締結後まもなく、イギリス、ドイツ、イタリア、ロシア、フランスなどの西欧諸国とも続々と修好通商条約が締結された。また同年8月には日朝修好条規続約、9月には朝清商民水陸貿易章程が締結されている。1883年以降、西欧諸国の外交代表もソウルに駐在し、本格的な朝鮮の開国が始まる。米国人宣教師が朝鮮に上陸し、急速にキリスト教の影響を拡大した。また米国人企業家が朝鮮で鉱山開発などの事業などを行い、トーマス・エジソンの会社が1887年に朝鮮で電気事業を開始したことは特筆に値する。1903年には朝鮮人のハワイ移民も始まった。 しかし、米国は1904年日本と桂・タフト協定を結び、日本の朝鮮支配を容認した。1905年日本が朝鮮の外交権を掌握すると、外国外交団はすべてソウルから引き揚げた。

(引用終わり)



 韓国の歴史教科書では、黄遵憲の『朝鮮策略』の主張について、重要な部分が抜けていますね。


>この頃、ロシア勢力の南下に対応して、朝鮮はアメリカと連合すべきだという内容の黄遵憲の『朝鮮策略』が国内の知識層に流布して、アメリカと外交関係を持つべきだという主張も起こっていた(韓国の教科書より)

>この頃清国駐日公使館参事官・黄遵憲は「朝鮮の主敵はロシア帝国であるから朝鮮は清国、日本、米国と連合すべしと」する『朝鮮策略』を著しており、清国の仲介もあって高宗(在位1863年~1907年)の朝鮮政府は米国との交渉に乗り気だった。(Wikipediaより)

 
 Wikipediaを見ると、『朝鮮の主敵はロシア帝国』である、とハッキリと書かれてあります。そして続いて『朝鮮は清国、日本、米国と連合すべしと』。
 それが韓国の教科書では『朝鮮はアメリカと連合すべきだという内容の』としか書かれてありません。

 これは極力『清国』の影響を表に出さず、さらに日本はあくまでも『連合相手』などという都合の悪い表現は隠して、『アメリカと(だけ)』連合すべし、と書いてあった事にしたいようであり、教科書では事実そのように書いてあります。
 これこそ『捏造』であり、『歪曲』以外の何物でもありません。



>しかしこの条約も領事裁判のために治外法権と最恵国待遇を規定する不平等条約だった


 それはお気の毒に。でもこの流れからすると、

 『日本が強引に条約締結させた』
      ↓
 『それは不平等条約だった』
      ↓
 『日本は何も知らない朝鮮を騙して不平等条約を締結させた』
      ↓
 『その後、各国とも不平等条約を締結しなければならなくなった』
      ↓
 『日本が悪い!』


  
 という事に・・・。


 なんとしても自分たちは哀れな『被害者』であり、日本を無条件に『悪者』にしたい!という意図がありありです。


>門戸を開放した朝鮮はどうなったか?

 
 何の事はない、結局は列強に食い物にされた、という事ですな、お気の毒ですが・・・。
 でも、その前に日本もやられてますから。

 だからこそ日本は富国強兵のため、近代化のため、そして列強の仲間入りをするためにそれこそ国を挙げて、歯を食いしばってがんばったわけです。


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