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慶文堂 ひま人日記

*1 開港以後列強による経済侵奪~私的考察

>開港後、外国商品の輸入と米殻の流出で農村経済はもちろん、産業も大きな打撃を受けた。日清戦争以後、日本は貿易独占、利権奪取、金融支配、借款提供、土地略奪などの手段でわが国の経済を蚕食していった。


さて、日本および列強各国と結ばれた不平等条約。
『日清戦争以後、日本は貿易独占、利権奪取、金融支配、借款提供、土地略奪などの手段でわが国の経済を蚕食していった・・・』なるほど、これはひどい。植民地以外のナニモノでもありません。
でも、果たして本当にこの通りだったのでしょうか?

資料を探すうちに、ちょっと面白いものを見つけました。


(引用開始)
「日朝修好条規(江華島条約)」は韓国にとって不平等条約だったか?(1876年)
東京大学東洋文化研究所 田中明彦研究室
日鮮修好條規


第一条に「朝鮮は自主の邦であり、日本と平等な権利を有する」について、
李朝はこの条文には「別に議論すべきほどのことではない」とすんなり合意している。
しかし、朝鮮の認識は違っていたようだ。
「朝鮮は独立の国」の意味であるのだが、李朝では「日本と平等」の意味にしか理解できなかった。

第4款、第5款では釜山ほか二港の開港と、
第十条で朝鮮の開港場での日本の領事裁判権を認めている。


この場合の領事裁判権とは、
朝鮮の開港場で罪を犯した日本人を日本の領事が裁判をする。
という、いわゆる治外法権のことである。

しかし、この領事裁判は双務規定である。
つまり、朝鮮国民が、日本で罪科を犯せば、
朝鮮国の法律で裁かれることになっている。

明治4年に結ばれた日清修好条規は、
互いに治外法権と領事裁判権を規定している。
この条規を誰も不平等条約と言わないのはなぜか?

それは領事裁判権が双務規定だからである。
これが片務規定のとき、不平等条約となる可能性が生じる

日本が列強諸国と結ばされた不平等条約は、
例えばアメリカ人が日本人に対して犯した犯罪をアメリカのみが
裁判権を持つと言う片務規定であり、まさに不平等条約と呼ばれるものである。

日清修好条規では、江戸時代以来の慣習をふまえて双務規定としたものである。
長崎で日本人に対して罪を犯した清国人は、清国の責任において清国が処断していたのである。

この慣習を法定したものが、
日清修好条規の領事裁判権の治外法権である。
これを当然に、誰も不平等条約とは言わない。


日朝修好条規も同じことなのである。

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日朝修好条規
第十款 
日本國人民、朝鮮國指定の各国に在留中に、もし罪科を犯し朝鮮國人民に
に交渉する事件は、すべて日本國官員の審斷に帰すべき。
もし朝鮮國人民が罪科を犯して日本國人民に交渉する事件は、
均しく朝鮮國官員の査辨に帰すべし。

尤、双方とも各、其の國の律によリ裁判し毫も
回護袒庇することなく務めて公平允當の裁判を示すべし

-------------------------------------------------------------------------

江戸時代に釜山で罪を犯した日本人は、
対馬藩が責任を持って処断するのが当然の慣習とされていた。

これを継承したのが日朝修好条規であり、朝鮮政府は何の異議も唱えていない。
当然と考えた、に過ぎないのである。




双務規定の条約なのに、
韓国人は、反日の言説ならば、何でも受け入れる
そして、条約を読まないだろうと思って
「不平等」というプロパガンダ化して文句を言い出したやつがいると言うことです。

日本が西洋のアメリカなどと締結した治外法権についても言及してみましょう。
西洋人にとっては、日本の刑法が野蛮に思えたのでしょう。
そんな法律で裁かれて残酷な刑罰を受けるのは恐怖だったと思いますよ。

同様に、当時の朝鮮の刑法は、もっと苛烈だった。
そんな野蛮な刑法で、日本人が裁かれるのが嫌だった。
だから、双務協定が成り立ったとも言えそうです。





「日朝修好条規」の第7款には、
日本国が朝鮮国沿岸を測量して、
その海図を同国に謹呈する事を、明確に謳っています。


当時の朝鮮には、測量技術が育っていたとは言えない。
一方、日本は江戸時代から、玉川兄弟による玉川上水工事、伊能忠敬による
日本地図の作成、咸臨丸の天文測量による太平洋航海、等々の測量技術を保有していた。

まあ、朝鮮半島の周辺は多島海であり、航行に注意が必要。
しかし、朝鮮には海図を正確に測量する技術が無い。
だから、航行に危険があるし、日本が代わりに測量してあげましょう。
そして、朝鮮側にも、朝鮮側の航行の安全のために、測量した海図を提供してあげる。

そんな意味ですね。


第七款 朝鮮国の沿海の島嶼・岩礁を従前に審検を経されば極めて危険となすに因り、
日本国の航海者が自由に海岸を測量するを、准し(なぞらえて)、其の位置浅深を審にし
圖誌を編製し両国船客をして危険を避け、安穏に航通するを得せしむべし(少し意訳)


日本人が知ってはならない歴史 若狭和朋著 朱鳥社
渡辺昇一の昭和史
韓国・中国「歴史教科書」を徹底批判する 勝岡寛治 著
より
2005年10月17日改編

(引用終わり)


>日朝修好条規
第十款 
日本國人民、朝鮮國指定の各国に在留中に、もし罪科を犯し朝鮮國人民に
に交渉する事件は、すべて日本國官員の審斷に帰すべき。
もし朝鮮國人民が罪科を犯して日本國人民に交渉する事件は、
均しく朝鮮國官員の査辨に帰すべし。

尤、双方とも各、其の國の律によリ裁判し毫も
回護袒庇することなく務めて公平允當の裁判を示すべし
 
----------------------------------------------------------------------

江戸時代に釜山で罪を犯した日本人は、
対馬藩が責任を持って処断するのが当然の慣習とされていた。

これを継承したのが日朝修好条規であり、朝鮮政府は何の異議も唱えていない。
当然と考えた、に過ぎないのである。




これは始めて知りました。
これが事実だとしたら、我々が認識している『不平等条約』とは違ってきます。

我々が認識している、いわゆる『不平等条約』の中では、あくまで治外法権であり、日本国内で罪を犯した外国人(たとえばアメリカ人)は日本国内の法律では裁けず、アメリカの法律によって裁かれる事になっています。
現在の米軍兵士による犯罪の場合を想定してもらうと分かりやすいかもしれません。

今だったら、

「日本国内での犯罪だろう!被害者の人権はどうなるんだ?日本の法律で裁くべきじゃないのか?」

と声を大にして言えますが、当時はそうはいきません。まだまだ国力・武力がモノをいう時代です。
文句があるなら武力で来い!ってな時代ですから。

そんな時代に双務規定の条約を締結したのですから、一方的に非難されるいわれは無いように思います。

とすると、他の部分、例えば、

>(日本商人は)日本の領事裁判権、日本貨幣の使用権、日本の輸出人商品の無関税などを認定した不平等条約を基礎に、日本政府の政策的な支援を受けながら略奪的な貿易活動を行なった。

という部分も、頭から信じるわけにはいかないようです。だいいち、

>壬午軍乱以後には朝鮮に対する清の政治的影響力が強くなり、清国商人が大挙浸透し朝鮮市場で日本商人と熾烈な競争をくり広げた。

とハッキリと清国の商人の事も書いているのに、悪い事をしたのはもっぱら日本商人だけ・・・はおかしいでしょう。
どうしても『日本だけ』を悪者にしたいようですね。


さらに次の『帝国主義列強の経済侵奪』では、最初に、


>清日戦争以後、朝鮮に対する列強の経済的侵奪はよりいっそう強化され、利権奪取、金融支配、惜款捉供などの様相をおびて、帝国主義的経済侵奪段階に入った。列強の利権奪取は俄館播遷の時期から表面化し、ロシアと日本をはじめとする列強は鉄道敷設権、鉱山採掘権、山林伐採権などの利権を奪っていった。

と、『朝鮮に対する列強の経済的侵奪』『ロシアと日本をはじめとする列強は』とハッキリと書いているのに、次からは延々と『日本の銀行は』『日本の惜款提供政策は』『日本商人は』『日本の大資本家が』『日本人による大規模な土地略奪は』『国権を奪われたころに日本人が朝鮮で所有した土地は』と、日本だけを問題にして話しを進めて行きます。

確かに日本の影響は大きかったでしょう。だが、他の列強はいったいどこへ行ったのでしょうか。



では本当の所はいったいどうだったのでしょうか?
Wikipediaより引用します。

(引用開始)(Wikipedia『韓国併合』より)
時代背景と日本・朝鮮の世論

(前略)日清戦争直後の朝鮮半島では改革派の勢いが強かったものの、日本が三国干渉に屈するのを見た王室をはじめとする保守派が勢力を回復してロシアに接近、政争が過激化した(閔妃暗殺も、この時期である)。1896年に親露保守派が高宗をロシア公使館に移して政権を奪取、高宗はロシア公使館にて1年あまり政務を執った(露館播遷)。これにより朝鮮がロシアの保護国と見なされる危険性もあったと考え、日本は朝鮮への影響力を維持するため1897年に大韓帝国と国号を改めて独立の事実を明確にさせようとした。結局、大韓帝国成立後も実質的に朝鮮王朝と同様の政体が朝鮮を支配することとなり、進歩会(のちの一進会)などの改革派は弾圧され(改革派への弾圧を日本政府に依頼することすらあった)、開化は進まなかった。

日本国内では再び朝鮮半島への改革に介入すべきだとの世論が起こり、遅々として進まない朝鮮半島の政治改革に「日本が併合してでも改革を推し進めるべきだ」とする世論が台頭した。

桂太郎は「欧州に並ぶ強国になるには新たな領土が必要だ」という見地からこれを強力に推し進めた。これにより朝鮮の自国領土への編入を望む日本政府と、日本世論とは合致した。

韓国統監であった伊藤博文と彼を中心とするグループは、「併合は時期尚早である」として反対した。この反対論は、第一に朝鮮の統治政策に関して「将来、朝鮮で日本への抵抗・独立勢力になり得る芽を先に除去すべき時期である」と考えて抵抗勢力や反乱についての対策に腐心していたこと、特に義兵活動が盛んなところでは村の大部分を焼き払う等の方法を用いた強引な弾圧を推し進める(吉田光男_2004:134頁)などしていたこと、第二に日本国内に目を向けて「国内産業の育成に力を入れるべき時期だ」と考えていたこと、第三になにより対外的に「まだ国際社会の同意を得られない」と考えていたことなどから導き出された立場であった。

(引用終わり)


伊東博文ら『併合反対派』の理由の中に、『抵抗勢力や反乱』に対して『義兵活動が盛んなところでは村の大部分を焼き払う等の方法を用いた強引な弾圧を推し進め』た勢力も実際にあったようです。
だが、それ以上は残念ながら見えてきません。



そして次の段階、『保護国化の進行』です。


(引用開始)WikipediaWikipedia『韓国併合』より

大韓帝国は冊封体制から離脱したものの、満州を手に入れたロシアが朝鮮半島に持つ利権を手がかりに明確な南下政策を取りつつあった。当初、日本は外交努力で衝突を避けようとしたが、ロシアは強大な軍事力を背景に日本への圧力を増していった。1904年、日露戦争の開戦である。P

日本政府は開戦直後に朝鮮半島内における軍事行動の制約をなくすため、1904年2月23日に日韓議定書を締結した。また、李氏朝鮮による独自の改革を諦め韓日合邦を目指そうとした進歩会(註;のちの一進会)は、鉄道敷設工事などに5万人ともいわれる大量の人員を派遣するなど、日露戦争において日本への協力を惜しまなかった。8月には第一次日韓協約を締結し、財政顧問に目賀田種太郎、外交顧問にアメリカ人のドーハム・スティーブンスを推薦した。日本政府による推薦者を加えて影響力を確保し、他国への便宜供与を制約しようとの試みである。他方で閔妃によってロシアに売り払われた関税権を買い戻すなど、その影響力を増していった。一方、高宗は日本の影響力をあくまでも排除しようと試み、日露戦争中においてもロシアに密書を送るなどの密使外交を展開していった。

この高宗の密使外交を排するために日本政府は日露戦争終結後の1905年11月に第二次日韓協約(韓国側では乙巳保護条約と呼ぶ)を締結し、12月には韓国統監府を設置して外交権をその支配下に置いた。しかし第二次日韓協約の締結を認めない高宗は条約締結は強制であり無効であると訴えるため、1907年第2回万国平和会議に密使を派遣した(いわゆるハーグ密使事件)。これに対して韓国統監であった伊藤をはじめとした日本政府首脳は激昂し、高宗を強制的に排除した。李完用らの協力もあり、7月20日には半ば強制的に高宗は退位に追いこまれ、純宗が第2代の大韓帝国皇帝として即位した。7月24日には第三次日韓協約を結んで内政権を掌握し、直後の8月1日には大韓帝国の軍隊を解散させるにまで至った。

これを不満とした元兵士などを中心として、抗日目的の反乱が起きたが兵のほとんどが旧式の武装しか持たず、兵としての練度もなかったためにほどなく鎮圧された。もともと、軍隊としての存在意義が薄かったための解散でもあった。残存兵力はその後の抗日義兵闘争に加わったともされる。
(引用終わり)





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