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慶文堂 ひま人日記

慶文堂 ひま人日記

7-3-3 近代的改革の推進

【韓国の歴史教科書】より

3 近代的改革の推進

甲午改革と乙未改革

 朝鮮は甲申政変の失敗で近代的な改革を主体的に実施する機会を失っていたが、開港以来累積した様々な矛盾を解決するためには大々的な改革が必要だった。そうして改革を要求する東学農民運動が起こると国王は大々的な改革を約束した。

 そして甲申政変に加担しなかった穏健開化派も国政全般に及ぶ改革の必要性を切実に感じていたので、国王の命を受けて校正庁を設置し、自主的に改革を推進しようとした(2)。


 一方、東学農民運動を契機に清日両国軍が朝鮮に入ってきたが、すでに政府と東学農民軍の間には全州和約が成立し外国軍隊の朝鮮駐屯に対する名分はなくなっていた。


 このような状況で、日本は朝鮮での内乱を予防するためには朝鮮の内政改革が必要であると主張した。しかし、その内面的な意図は、日本軍の朝鮮駐屯の名分を見つけ、すすんで清との戦争の口実を作り、清の勢力を朝鮮から追い出した後、朝鮮に対する内政干渉をとおして経済的利権を奪取するとともに、侵略の基盤を固めることであった。

 したがって、日本は朝鮮に対して内政改革を要請したが、朝鮮は日本軍が先に撤収することを要求した。

日本側の内政改革強要と朝鮮側の自主的改革の主張が強く対立するなかで、日本は軍隊を動員して景福官を占領した。このような日本の脅威のなかで閔氏政権が崩壊し、大院君を摂政とする第1次金弘集内閣が成立した。そして改革を推進するための軍国機務処が設置された。


 軍国機務処は超政府的な会議機関として改革を主導した。これが第1次改革で、いわゆる甲午改革である(1894年)。当時、日本は利権侵奪に力を注ぎ、改革内容に対しては傍観的な姿勢をとっていたので、改革は事実上軍国機務処の主導のもとで推進された。

 ところが日本は清日戦争で優勢になると、朝鮮に対して積極的な千渉政策をとった。このとき、甲申政変の主動者として亡命していた朴泳孝と徐光範が帰国して改革に参与した。


 第2次改革は軍国機務処が廃止され、金弘集・朴泳孝連立内閣が成立することによって推進された。高宗は文武百官を従えて宗廟に出かけ独立誓告文を捧げ、洪範14条を頒布した。

 独立誓告文は国王が国の自主独立を宣布した一種の独立宣言文であり、洪範14条は自主権、行政、財政、教育、官吏任用、民権保障の内容を規定した国政改革の基本綱領であった。第2次改革は、当時日本が三国干渉のために勢力が弱まっている過程であったので、事実上朝鮮の内閣大臣、とくに内務大臣朴泳孝の主導で断行された。

しかし、朴泳孝が閔氏一派によって排除されることによって改革は中断した。


 朴泳孝が失脚した後、穏健改革派と親露派の連立内閣である第3次金弘集内閣が成立した。このとき、明成皇后は親露派と連結して日本の侵略勢力を排除しようとし、このために日本侵略者らは明成皇后を弑殺する乙未事変を起こした(1895年)。

 このようななかで、第3次改革が推進され、断髪令が出されると、儒生は「私の首を切っても私の髪の毛を切ることはできない」と強硬な姿勢で反発した。ついに明成皇后の弑殺に鬱憤を押さえきれなくなった儒生層と農民が断髪令を契機にして各地で義兵を起こし、このような渦中で親露派は国王をロシア公使館へ隠した。この俄館播遷によって改革運動は中断した。

【※(2) 日本政府が朝鮮に内政改革案を提出したとき、朝鮮政府は日本の軍隊の撤収をまず問題にしたが、1894年6月王命で校正庁を設置し、堂上15人と郎庁2人を任命し自主的に改革を実施しようとした。】



改革の内容と意味
 甲午改革と乙未改革をとおして政治・経済・社会の各分野にわたる近代的改革がなされた。

 政治面では、開国年号を使用し、王室と政府の事務を分離し、政治の実権を相当部分内閣が持つことによって、国王の専制権を制限した。また、科挙制度を廃止し、身分の区別なく人材を登用する新しい官吏任用制度を実施した。そして司法権を行政権から分離し、逮捕と拘禁、裁判の業務は警察官と司法官だけが担当するようにした。一方、地方官の権限を大幅に縮小し、司法権と軍事権を除外し、行政権だけを行使するようにした。

 経済面では、財政に関するすべての事務を度支部にまかせ財政を一元化し、王室と政府の財政を分離し国家財政を整備することに力点をおいた。また、銀本位貨幣制度の採択、租税の金納制の施行、度量衡の改訂、統一などを行なった。


洪範14条
1. 清に依存する考えを棄てて自主独立の基礎を作る。
2. 王室典範を制定し王位継承の法則と宗親と外戚との区別を明確にする。
3. 君主は各大臣と相談し政事を行ない、宗室、外戚の内政千渉を許さない。
4. 王室事務と国政事務を分けてたがいに混同しない。
5. 議政府及び各衙門の職務、権限を明らかに規定する。
6. 納税は法で定め、むやみに税金を徴収しない。
7. 租税の徴収と経費支出はすべて度支衙門の管轄に属する。
8. 王室の経費は率先して節約し、これによって各衡門と地方官の模範になるようにする。
9. 王室と官府の1年の会計を予定して財政の基礎を確立する。
10. 地方制度を改正し地方官吏の職権を制限する。
11. 聡明な若者を派遣して外国の学術、技芸を研修させる。
12. 将校を教育し、徴兵を実施し、軍制の根本を確立する。
13. 民法、刑法を制定し、人民の生命と財産を保全する。
14. 門閥を問わず人材登用の道を広げる。



 社会面では、身分制を撤廃し両班と平民の階級を打破し、公私の奴碑制度を廃止して、人身売買行為を禁止した。また、早婚禁止、寡婦再婚許容、拷問と連座法の廃止などを実施し封建的な弊習を打破した。

 軍事面での改革はなおざりだったが、これは日本が朝鮮の軍事力強化や軍制改革をいやがったためであった。改革過程で訓練隊の創設、拡充と士官養成所の設置などが一時試導されたが、大きな成果を収められなかった。

 甲午・乙未改革は概して日本帝国主義の勢力によって強要された面もあったが、封建的な伝統秩序を打破する近代的改革だったことには間違いない。さらに、朝鮮の開化人士と東学農民層の改革意志が反映された民族の内部から生じた近代化の努力でもあった(3)。

【※(3) 甲午改革、乙未改革は日本の強要によって着手され、この結果も日本の朝鮮侵略を容易にする体制改編にすぎなかったという改革の他律性のために否定的に評価されることもある。しかし、日本の改革強要がある以前に、すでに甲申政変や東学農民運動によって改革運動が起こっており、甲午改革、乙未改革が事実上朝鮮の開化派官僚によって推進され、改革の結果も近代化過程において非常に垂要な政治的、経済的、社会的な一大改革であった点で、制限的ではあるがその改革の自律性が認定され、改革の方向が肯定的に評価されている。】




*さて、日本側の歴史教科書ではどのような記述がされているのでしょうか?  


【比較】新しい歴史教科書をつくる会
中学社会[改訂版] 新しい歴史教科書(平成18年~21年度 使用版)より

P164 
 57;日清戦争~朝鮮をめぐる日清の抗争

 日本は、朝鮮の開国後、その近代化を助けるべく軍隊の制度の改革を援助した。ところが、1882(明15)年、改革に取り残され、冷遇されたことに不満を持った一部の朝鮮軍人の暴動が発生した(壬牛事変)。清はこれに乗じ、数千の軍隊を派遣してただちに暴動を鎮圧し、日本の影響力を弱めた。

 1884年には、日本の明治維新にならって近代化を進めようとした金玉均(きん ぎょくきん/キム オッキュン)らのクーデターが起こったが、このときも清の軍隊は、これを弾圧した(甲申事変)。

 朝鮮における清朝との勢力争いに2度敗北した日本は、清との戦争を予想して急速に軍備を拡張し、やがてほぼ対等な軍事力をたくわえるにいたった。





~日清戦争と日本の勝因
 
 1894(明治27)年、朝鮮の南部に甲牛農民戦争とよばれる暴動がおこった。農民軍は、外国人と腐敗した約人を追放しようとし、一時は朝鮮半島の一部を制圧するほどであった。わずかな兵力しかもたない朝鮮王朝は、清に鎮圧の為に出兵を求めたが、日本も清との申し合わせを口実に軍隊を派遣し、日清両軍が衝突して日清戦争が始まった。
 戦場は朝鮮のほか、満州(中国東北部)南部などに広がり、日本は陸戦でも海戦でも清を圧倒し、勝利した。日本の勝因とし(ここからはP165)ては、新兵器の装備に加え、軍隊の訓練、規律にまさっていたことがあげられるが、その背景には、日本人全体の意識が、国民として一つにまとまっていたことがある。


~下関条約と三国干渉

 1895(明治28)年、日清両国は下関条約を結び、清は朝鮮の独立を認めるとともに、日本政府の財政収入の3倍に当たる賠償金3億円(2億両)あまりを支払い、遼東半島や台湾などを日本にゆずり渡した。

「眠れる獅子」と呼ばれてその底力をおそれられていた清は、世界の予想に反して新興の日本にもろくも敗れ、古代から続いた東アジアの秩序は崩壊した。中国は、たちまちにして列強諸国の分割の対象となった。

 しかし、日本が簡単に欧米列強と対等になることは許されなかった。東アジアに野心を持つロシアは、ドイツ、フランスを誘って、強力な軍事力を背景に、遼東半島を清に返還するよう日本にせまった。これを三国干渉という。清を破ったとはいえ、独力で3国に対抗する力を持たない日本は、やむをえず、一定額の還付金と引き換えに遼東半島を手放さねばならなかった。日本は中国の故事にある「臥薪嘗胆」を合言葉に、官民あげてロシアに対抗するための国力の充実に努めるようになった。(了)


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