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慶文堂 ひま人日記

7-3-4 独立協会活動と大韓帝国

4 独立協会活動と大韓帝国


独立協会の創立と民衆啓蒙

 俄館播遷によって金弘集の親日内閣が倒れ、親露派政権が成立すると、日本の侵略勢力はいったん牽制された。しかし、国王がロシア公使館に留まっている間に、ロシアをはじめとする列強の利権侵奪はますます激しくなり、執権層は親露的な性向を露わにした。
 このようなときに甲申政変の主導者としてアメリカヘ亡命していた徐載弼が帰国した。彼は自由民主主義的改革思想を民衆に普及し、国民の力で完全なる自主独立国家を樹立しようと、『独立新聞』を創刊し、独立協会を創立した(1896年)。



 独立協会は徐載弼をはじめ、尹致昊、李商在、南宮檍など近代思想と改革思想を持った進歩的知識人によって指導部が形成され、資本主義列強の侵奪と保守的支配層の圧制に不満を持った都市市民層が主要な構成員となった。そして学生、労働者、女性、賎民など広範な社会階層の支持を受けた。
 独立協会の指導層は、甲申政変と甲午改革のような改革運動が民衆の支持基盤がなくて失敗に終わった事実を教訓として、優先的に民衆を覚醒するための運動を展開した。



 
 彼らは最初の事業として、国民から献金を集め、迎恩門の場所に自主独立の象徴である独立門を建て、慕華館を独立館に改修するなど国民の自主独立意識を鼓吹した。また、講演会と討論会の開催、新聞と雑誌の発刊などをとおして近代的知識と国権・民権思想を鼓吹し、民衆を教え導いた。
 このような啓蒙運動によって次第に国民の近代的政治意識が向上し、市民の呼応と参加度が高まり独立協会は民衆のなかに根を下していった。



 その後、独立協会と『独立新聞』が政府の外勢依存的な姿勢を批判すると、独立協会に参加していた官僚は大部分離脱したが、独立協会はかえって民衆に基盤を置社会団体に発展していった。



国権・民権運動の展開

 この頃、ロシアの侵略的干渉はつづいており、列強の利権侵奪はますます激しくなっていった。そこで独立協会会員はわが国最初の近代的民衆大会である万民共同会を開いた(1898年)。1万余人の市民、学生が集まり、鍾路広場で開かれた万民共同会ではロシアの侵略政策を糾弾し、大韓の自主独立権を守ろうという内容の決議案を採択し、これを政府に建議した。
 以後、独立協会は随時万民共同会を開き、外国の内政干渉と利権要求および土地租借要求などに対抗して国権と国益を守護しようとする自主国権運動を展開していった。



 自主国権運動が展開される過程で、民衆の力が増大し民権意識が高揚し自由民権運動も展開された。独立協会は国民の身体の自由、財産権、言論・出版・集会・結社の自由などを確保しようとする運動を展開し、相当な成果を収めた。さらに、民意を国政に反映させ、近代改革を推進しようとする国民参政権運動も展開した。



 その後、独立協会は全国各地に支会を設置し、4000余人の会員を持つ民衆の代表機関に成長し、議会設立による国民参政運動と国政改革運動を本格的に展開した。独立協会はこのような活動をとおして保守的内閣を倒し、朴定陽の進歩的内閣を樹立することに成功した。


 そして万民共同会に政府大臣を同席させ官民共同会を開き、国権守護と民権保障および政治改革を内容とする献議6条を決議し、国王の裁可を得た。さらに、政府と協議を開き、官選委員と民選委員を同じ数にする議会式中枢院官制を頒布させ、わが国の歴史上最初の国会が設立される段階にまで至った。



 しかし保守勢力は、高宗に独立協会が王政を廃止し共和政を実施しようとしていると謀略をめぐらし、朴定陽内閣を倒し独立協会も解散させてしまった。ためにソウル市民は万民共同会を開き、50余日間の示威籠城をとおして独立協会の復活、改革派内閣の樹立、議会式中枢院の設置などを要求するとともに激しい闘争を展開した。しかし政府は皇国協会を利用して万民共同会を弾圧し、結局は兵力を動員して民衆の政治活動を封鎖した。




官民共同会の献議6条
1. 外国人に依存しないこと。
2. 外国との利権に関する契約と条約は各大臣と中枢院議長が合同捺印して施行すること。
3. 国家財政は度支部で専管し、予算と決算を国民に公布すること。
4. 重大犯罪を公判に付すが、被告の人権を尊重すること。
5. 勅任官を任命するときには政府にこの意義をただし衆議に従うこと。
6. 決められた規定を実践すること。



独立協会活動の意義
 独立協会の活動過程で現れた思想は自主国権思想、自由民権思想、自強改革思想に集約される。

 第1、自主国権思想は自主独立国家を建設しようとする近代的民族主義思想であった。独立協会は、列強の侵略から自主独立する道は、外国に依存しないで自らの力で国権を守ることであると信じた。そして実際に民衆を背景に政府に圧力を加え、列強の内政干渉と利権要求を拒否するなどの自主国権運動を展開した。

 第2、自由民権思想は国民の自由と平等および国民主権の確立をとおして近代国民国家を建設しようとする民主主義思想であった。独立協会は民衆に民権意識を鼓吹し、自由民権の民主主義理念を社会一般に伝播した。

 第3、自強改革思想は自主的な近代改革をとおして国力を培養しようとする近代化思想であった。独立協会は過去の開化勢力とは違い、民衆を開化運動と結合させ近代的民衆運動を起こし、民衆による自主的な近代化運動を展開した。




大韓帝国
 俄館播遷1年目である1897年に高宗は内外の世論に助けられてロシア公使館から慶運宮に還宮し、国号を大韓帝国、元号を光武と変えた後、王を皇帝と称し自主国家であることを内外に宣布した。



 大韓帝国は、内には外勢の干渉を防ぎ自主独立の近代国家を建設する国民的な自覚と、外には朝鮮からロシアの独占勢力を牽制しようとする国際的な世論の支援を受けて成立した。



 大韓帝国の執権層は甲午・乙未改革の急進性を批判し、漸進的な改革を迫求した。光武政権の施政方向は、旧制度を根本にして新しい制度を参酌するという旧本新参にあった。

 これは多分に復古主義的性格を帯びたものだった。光武政権の復古的政策は政治面で専制王権の強化として現れた。それゆえに光武政権は立憲君主制と議会設立を主張する独立協会の政治改革運動を弾圧した。


 そして光武政権が1899年に一種の憲法として制定した大韓国国制は、大韓帝国が専制政治国家であり、皇帝権の無限であることを強調し、統帥権、立法権、行政権、司法権、外交権などをすべて皇帝の大権に規定し専制君主体制をいっそう強化した。


 一方、光武政権は経済面で量田事業と商工業振興策を推進した。量田事業は過去の累積した弊害の一つである田政を改革し民生を安定させ、国家財政を確保するためのものだった。この量田作業で近代的土地所有権制度といえる地契が発給された。


 政府の商工業振興策が実施され、繊維、鉄道、運輸、鉱業、金融分野で近代的な工場と会社が設立された。これによって実業教育が強調され、近代産業技術を習得するために外国に留学生が派遣されて、各種の実業学校と技術教育機関も設立された。そして交通、通信、電気、医療など各分野にわたる近代的施設が拡充されていった。


 このように、光武政権は経済、教育、施設面で国力増強をはかったが、執権層の保守的性向と列強の干渉のために大きな成果をあげられなかった。



大韓国国制(要約)
第1条 大韓国は世界万国が公認した自主独立帝国である。
第2条 大韓国の政治は万世不変の専制政治である。
第3条 大韓国大皇帝は無限の君権を享有する。
第5条 大韓国大皇帝は陸・海軍を統率する。
第6条 大韓国大皇帝は法律を制定し、その頒布と執行を命じ、大赦、特赦、減刑、復権などを命ずる。
第7条 大韓国大皇帝は行政各部の官制を定め、行政上必要な勅令を発する。
第9条 大韓国大皇帝は各条約締結国家に使臣を派遣し、宣戦、講和および諸般の条約を締結する。




間島と独島
 19世紀後半以後、韓民族は間島地方へ移住して、そこの荒蕪地を開拓するなど生活の基盤を確保した。すると清は間島開墾事業を口実に韓民族の撤収を要求し、ここに間島帰属問題が起こった。政府では白頭山定界碑の土門江が松花江の上流なので間島がわが領土であることを主張し、間島に官吏を派遣し管理していた。


 総督府が設置された後にも日帝は間島に統監府の派出所をおきこれを管轄した。しかし、日帝は清と間島協約を締結し(1909年)、満州の安奉線鉄道敷設権を得た代価として間島を清の領土と認定した。
 日帝がこのようにわが国の外交権を掌握して自分勝手に協約を締結したことは乙巳条約に根拠をおいているのだが、乙巳条約が高宗皇帝によって無効であると宣言された以上、この条約を根拠に結んだ間島協約も無効である。


 これだけではなく、日帝は露日戦争中に、独島を自分の領土に編入する不法行為を犯したりした。(了)


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