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慶文堂 ひま人日記

慶文堂 ひま人日記

*5 抗日義兵戦争の展開~私的考察

 いよいよ日露戦争に入りました。もっとも、韓国では『露日戦争』と表現するらしいですね。
 どっちにしても韓国から見たら『外国』なのでどうでも良いような物ですが、この表現からすると、現在の韓国にとっては日本よりもロシアの方がより身近に感じられるのでしょう。
(例えば我々日本人がアメリカとロシアを並べて表記する時には『米露』と表記するでしょう。それは身近に感じるアメリカの方を先に持ってくるからです)。



>抗日義兵運動の開始

 ここでは、日露戦争の一方の当事者・ロシアに関しては一切書かれていません。出てくるのは、

>日帝の侵略が本格化し大韓帝国は大きな試練を受けた。
>日帝の侵略に対する最も積極的な民族的抵抗は義兵戦争であった。
>最初の抗日義兵は日本侵略者によって恣意的に行なわれた乙未事変と親日内閣・・
>いわゆる乙未義兵は衛正斥邪思想を持った儒生が主導し、一般農民と東学農民軍の残存勢力が加担した。彼らは(中略)親日官吏と日本人を処断した。



 これでもか、これでもか!というくらいに『日帝』『侵略』などの文字が出てきます。さらに『親日官吏と日本人を処断』した、と。『処断』とは『理非・曲直などをさばいてきめること』であり、日本で言えば『天誅』みたいなもので、『正義は我に有り』という所でしょうか。
 とことん『日本憎し!』で貫かれています。




>義兵抗戦の拡大
> 露日戦争を契機に、日帝は侵略を積極化するとともに一方的に乙巳条約の締結を発表した。これに対して社会の各界各層では日帝の侵略を球団し、条約の廃棄を主張する運動が至るところで激しく起こった。




 ここに出てくる『乙巳条約』とは、日韓協約のうち1905(明治38)年に締結された条約で、日露戦争に勝利した日本が、アメリカ、イギリス、ロシアなど列国の承認を取り付けて韓国を事実上属国化した全文5条からなる(大韓側では乙巳【ウルサ】保護条約と呼ばれる)ものです。
 韓国の歴史教科書だけを見ると、『日本は強引に乙巳条約を押しつけて、韓国から外交を剥奪した』という印象を受けます。従って、またまた『日帝が悪い』と。
 果たして本当にそうだったのでしょうか?

 この条約について、日本側から見た文章があったので引用させていただきます。


(引用開始) Do TORON様より 
第二次日韓協約・乙巳条約を締結するまでの過程を見よう
きっかけは、高宗の密使派遣外交と、度重なる発覚

1905年3月26日、韓国皇帝が出した密書が、
上海のデシノ少将の元に到着したことが発覚した。
この密書は上海滞在中のパブロフを通じて、ロシア皇帝に訴えるもので、

日露開戦一カ年を過ぎ、・・・・日本の韓国に対する圧政の度、日に加わり、兵権より財政に至るまで、ことごとく之を掌握左右し、・・・・韓国の主権を横奪し、・・・・憂苦措く能わず、故を以て露の恩眷によりて日兵を駆逐するか、或いは策を以て日本の暴戻を峻拒するの手段につき稟議を露国大皇帝陛下に訴うることを切望す

とのことが記してあった。

その事につき
林権助韓国公使が皇帝に問いつめたところ、
皇帝はそのような密使を派遣したことはないと否定し、
そのような書類を偽造した者の処分を検討すると言った。

しかし、2月8日には、
皇帝が密書を出したと思われる形跡が発覚しており、この時もその事実を皇帝は否定している。

この密書の詳細が発見される直前、林公使は出張で帰国し、
桂首相に、スチーブンス、目賀田顧問等の苦情を訴え、保護国化の必要性を主張してきた。
この密書の発覚は、まだ日露戦争の最中であり、
この事件だけでも韓国に宣戦布告し、植民地化する正当な理由となる。

この事実を受け、4月8日、韓国に対し保護権を確立することを閣議決定した。

その上で、第二次日英同盟、日露講和会議、桂・タフト協覚書等の交渉を通じて、
列強に韓国の保護国化を認めさせた。
ところが、この動きを知った韓国皇帝は、またまた密使派遣外交に出た。

7月、韓国皇帝は、
李承晩をアメリカに、フランス人マーテルをロシア、フランスに
10月、韓国皇帝は、ハルバートをアメリカ、二人の韓国人をイギリスに派遣


これらの密使派遣は、
韓国の言い分としては自衛権の発動となるが、明らかに、第一次日韓協約の違反である。
しかも、その事実を追求すると、韓国皇帝は、悉くそれらは偽造だと否定したのである。



朝鮮の直接統治は、本来はしたくなかった

当時は台湾での反日活動が、ようやく終結したばかりであった。
台湾の反日活動は激しく、長期に亘った。
その処理に手を焼いた日本では、フランスへ売却を真剣に検討したくらいである。

従って、伊藤博文や当時の大蔵大臣で、
後に伊藤の後任として第二代の韓国統監になった曽禰荒助は、
韓国の直接統治には反対であった。

理由は、日露戦争で多額の費用を使ったので、韓国統治につぎ込む金がない、、、ということであった。

11月、伊藤博文が特使として韓国に派遣され、
軍隊の圧力を背景に、第二次日韓協約を締結した。
韓国は、外交権を奪われ、日本の保護国となった。
この協約の締結を迫ったかは、この密使事件の存在により明確になる。



協約を調印するまでの過程を見よう
これより先の10月27日の閣議では具体的な「方法順序」として

1,条約により韓国の外交関係を日本が担当する
2,条約締結後に、韓国と諸外国との旧来の条約の維持を宣言する。
3,11月初旬実行する
4,条約締結の全権を林権助・駐韓公使に委任
5,勅使を派遣し韓国皇帝に親書を贈る
6,長谷川韓国駐箚司令官に軍事的援助をするように命令する
7,輸送中の日本軍隊のソウル集結
8,条約締結が不可能な場合、韓国へは保護権の確立の通告、列強には宣言を発する

の8項目を決定、条約案も確認し天皇の裁可を得た。
これらは、3の11月初旬が中旬になったこと、
条約の文言が修正された以外は、ほぼそのまま実現する。



11月10日、伊藤ほか随行員の文武官は王宮の慶雲宮に参内。
高宗皇帝に謁見し、天皇の親書を手渡した。
親書には
「今や幸に平和は克復せられたりと雖も、
之を恒久に維持し、東亜将来の滋端を杜絶せんが為には、
両帝国間の結合を一層鞏固ならしめんこと極めて緊要なりとす」
という天皇の日韓結合の真意が何を意味するか、皇帝もおよそのことを想像することができただろう。


11月15日、皇帝に内謁見した伊藤は、
韓国の外交権行使を、韓国政府から委任を受けた日本政府が行うことを提案した。
いわゆる保護国関係である。
これに対して、皇帝は
「対外関係の一事、敢えて之を絶対に拒否するに非ずと雖も、要は唯其の形式を存し、
内容の如きに至りては如何に協定せらるるにせよ、断じて異議なき所なり」、、、と答えた。

しかし、伊藤は
「本来は帝国政府が種々考慮を重ね、
最早、寸毫も変通の余地なき確定案にして、、、、
断じて動かす能わざる帝国政府の確定議」であると強圧的に対応し、
さらに、外部大臣(外相 朴斉純)に対して、林権助・駐韓公使の提案にもとづき協議し、
協約調印に至るよう勅命を下すことを要請した

皇帝もやむなく
「外部大臣へは交渉妥協の途を勉むべき旨を達すべし」と答えざるをえなかった。


11月16日、林公使は朴斉純外相を招き、協約案を手交した。
公式交渉の開始である。
伊藤博文が脅迫的な言辞を交えながら説得をおこなった。
伊藤に対する大臣達の対応は様々である。

韓圭咼参政は、たとえ形式上なりとも韓国の独立を保全したいと希望し、
「韓国現下の状況は気息奄々、瀕死に等し、
唯だ纔か(わずか)に一縷の余命を存せるは、
一に是れ外交関係を親ら(みずから)するに在るなり。
而して其の外交をすら貴国に委任せんか、全く命脈断絶するの悲境に沈むべし」、、、と述べた。
前日の伊藤に対する皇帝の要請と同じ趣旨である。


11月17日午前11時、
林は日本公使館に大臣全員を招集し、協約案につき韓国側の意見を聞いた。
誰も賛否を明確に表さず、
「一同は事態の詳細と各自の意見を陛下に奏上して聖断を仰ぎたる上、確答を本官に与えん」
ということになったと林は報告している。
しかし、皇帝の御前会議に持ち込んで、一決しようという計画は林と伊藤との打ち合わせの結果であった。
(中略)
伊藤も調印を急いでいた。
協商が難航すれば内閣総辞職して交渉相手を失うとか、
韓国政府の一部には日本のなすがままに放任して、国際的「公論」に訴えるとよい
という意見があったから、「事の遷延を下得策」と見ていた。

韓国大臣達は、林公使や公使館員達に付き添われて参内し、
午後4時頃から王宮の慶運宮の漱玉軒で御前会議が開かれた。
しかし、林の予想通り、結論には至らず継続審議になった。

中略
午後8時頃、
伊藤は宮中に現れ、皇帝に内謁見を求めた。
病中の皇帝はこれを断り、李載克宮内相に「朕が政府大臣をして商議妥協を遂げしめんとす。
卿(伊藤)、願わくは其の間に立ち周旋、善く妥協の道を講ぜんことを」という勅答を与えた。

伊藤は大臣1人1人に賛否を尋問した。
韓圭咼参政と閔泳綺度支相は明確に反対を表明した。
朴斉純外相も「断然不同意」と拒否したが、言葉尻をとらえた伊藤は「反対とは見倣さず」と判定した
結局、李完用、李址鎔、権重鎮の3人は参政
朴斉純、李夏栄、李根沢の3人は、伊藤により反対ではないとされた。

伊藤は、これをもって
「普通採択の常軌として多数決により」
閣議決定は協約案賛成として、皇帝の裁可を奏請するよう促した。

韓圭咼参政に皇帝の裁可を求めるように促し、拒否するならば、
「予は我が天皇陛下の使命を奉じて此の任にあたる。諸君に愚弄せられて黙するものにあらず」
と、恫喝した。
韓圭咼参政は、すすり泣きながら
「陛下の聖旨に背き、又、閣僚と意見を異にするに至る。
宜しく進退を決し、謹んで大罪を待つの外なかるべし」と語り、
やがて「会議室を起って別室に退」いた。


午後11時半、林公使と朴斉純外相とが記名し、
外部(外務省)から日本公使館員が奪うようにして持ってきた外相職印を捺印した。
18日、午前1時半頃のことである


協約案が出来て修正され締結するまでの過程
上奏前に、協約案に修正が施された

○ 李夏栄法相から、第一条の字句の修正

○ 権重顕農商工相から、第五条として「皇帝の安寧と尊厳」の保証事項の追加

○ 李完用学相から第三条の統監の職掌に「内政に干渉せず」の字句挿入の意見が出された。

伊藤は、第一、第五条については修正意見をそのまま受け入れた。
しかし、第三条の統監職掌に内政不干渉を明記する要求には躊躇し、
「統監は専ら外交に関する事項を処理するため京城に駐在し」
の文言を加えることで合意した。
他に、韓国側から協約に時限を付す意見が出されたが、林が拒否した。

修正後の協約案を内奏したところ、
皇帝は、「韓国が富強を致し、
其の独立を維持するに足るの実力を養うるに至らば、
此の約案を撤回する旨の字句を挿入せんこと」、、、、を求めた。
皇帝は、協約に期限を付し、外交権の回復をはかったものと思われる。

伊藤は、それを逆手に取り、協約前文に
「韓国の富強の実を認むるに至る迄」を挿入し、
修正要求を容れたことにより、皇帝不承認の理由を潰していく。

28日、桂太郎兼任外相に送った報告で林は、
「最後に陛下の直接の希望を容れて、新たに一条を加えたり。
此の事実に拠るも、諸条約は当事者相互の意思の一致に出でたるや明なり」
と合意に達したことを強調している。

外交権行使の日韓保護条約が国際的に承認されるかどうかは、
日本政府の通告に対して各国が文書で明示的に回答するのではなく、
保護国とされた韓国に派遣している自国外交官(公使館)の廃止で黙示的に示す。

日本政府が不安視する中で、ベルギー、イギリス、清国、アメリカ、ドイツ、フランス公使が年末までに、それぞれ帰国の途についた。
帝国主義列強は、日本の韓国「乙種真正保護国」化を承認したのである。




協約の調印について、韓国側の大臣は強制されたと思ったのか?

調印から一ヶ月後の12月15日、
協約に賛成した「五賊」として韓国国民の非難を浴びていた義政府大臣署理・李完用、参政大臣・朴斉純、農商工部大臣・権重鎮、軍部大臣・李根沢、内部大臣・李址鎔の五人の大臣が、皇帝に上疏して調印時の自己の発言を弁明した。

韓圭咼参政と閔泳綺度支相以外の6人の発言は「可」ではなく、
それぞれが問題点を指摘したが、伊藤により「可の辺」と判定されたという。

彼らには、伊藤に騙されたという意識はあっても、脅迫されたという認識はない。
五大臣の上疏に対する皇帝の回答は、誤りとして罪を問うのではなく、彼らを慰撫するにとどまった。

海野福寿 著/韓国併合 岩波書店
伊藤博文と韓国併合 青木書店より 改編
2005年03月07日製作
2005年12月12日改編

(引用終わり)



 時の韓国皇帝・高宗の密書による勝手な隠密外交などは無視し、あくまでも『日帝が悪い』に終始しています。だからこそ、

>社会の各界各層では日帝の侵略を糾弾し、条約の廃棄を主張する運動が至るところで激しく起こった。

 のである、と説明しています。
 では何故、日本が韓国の外交権を剥奪する必要があったのか?そもそも何故日本が朝鮮半島に介入しなければならなかったのか?
 日本が朝鮮半島に介入した結果、日本自身もその後多大な負担を強いられ、なおかつ朝鮮半島の反日思想の人たちからも憎まれました。その結果がここで取り上げられている『抗日抗日義兵戦争』になるわけです。

 
 やっぱりもっと時代を溯って見る必要があるようです。


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