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みかんの木を育てる-四季の変化

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2021年09月18日
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​台風が接近する中での朝市​

9月18日(土)、台風14号が関東に近づいています。
東京・多摩でも、朝から断続的に雨が降っています。
朝、電話がありました。

『こんな天気でも、朝市は開きますか?』と、問い合わせの電話でした。
『今回は、栗とミョウガと、レモンです。鮮度が命ですから開きますよ』と。



栗をいくらに値付けするか。
昨日、小田原の石垣山・一夜城の産直販売をリサーチしてみました。
そこでは、一袋が500円で売られていました。

それに対して、こちらは350円ですから、お買い得でしょう。
19袋用意したんですが、こんな天気ですから、表に出て来る人は少ないんです。
だから、電話で注文をとって、午前9時半には店じまいにしました。
丁度店をたたむころから、雨が強くなり出してきた。
これから台風が近づいてきます。


今回は、台風の雨の合間の朝市となりました。







Last updated  2021年09月18日 10時24分51秒
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2021年09月17日
カテゴリ:みかん栽培

​アシナガバチに刺されずに済みました​

9月15,16日は、小田原のみかん園で草刈りの作業をしてきたんですが、
もうちょっとのところで、アシナガバチと喧嘩をするところでした。

そろそろみかんの木も、早生みかんが色づきだすころとなりました。
早生みかんの収穫まで、あとすこしです。

この時期は、最後の草刈りと、枯れ枝の切除をしているんですが。
今回、枯れ枝を切って片付けていたら、
みかんの枝先に10センチくらいのアシナガバチの巣があったんです。



枝を切って、野焼き場に運んで積み上げたときにハチの巣があるのに気がついたんですが。
次の写真が、その枯れ枝です。
この黄色く枯れた枝は、放置すると枯れ込みが広がります。
沢山みかんをつけていたので、収穫を楽しみにしていたんですが、仕方ありません。
ここにきて、枝の全体が枯れだしちゃったんですね。



伐採した後、枝に巻き付いていたつる草を取り除いていたら、
巣をなくされたアシナガバチの5-6匹が、枝のあったあたりを、巣を探して飛び回っていたんですね。
枝を切った時には、そこにハチの巣があることなんか知りませんから、
まったく気にしてなかったんですが。
これが、時期がもう少し早く、炎天下の暑い日だったら、
きっと、アシナガバチは、枝を切ろうとして近づいた当方を襲撃してきたでしょう。

さいわい、秋風が吹きだし、今日は雲の天気だったんで、
それはたまたまだったんですが、
アシナガバチは、戦闘モードに入らずに、枝のあったあたりを飛んでいただけでした。

蜂に刺されずに済んだのは、たまたまの偶然だったんですね。

さて、今日は、キウイの木に巻き付いていたつる草をはぎ取りました。
これが、手を入れる前のキウイの木です。



草刈りに追われていて、先送りにされていた木に巻き付いたつる草を剥ぎ取りました。
これだけつる草が覆いかぶさっていたら、本来ならキウイの実がついているはずですが、
1個として実は着いていませんでした。

やはり、手を入れてしっかり育てないと、キウイも実をつけてはくれないんですね。

次の写真は、つる草をはぎ取ったあとの様子です。



ついで仕事の栽培では、果樹は育てれないということです。

今は、枯れた枝や、はぎ取ったつる草を一か所に集めています。
もう、ちょっとでも動くと、汗びっしょりになっちゃうんですが。



積み上げられた山で、その作業がお分かりいただけるかと思います。
これだって、まだ切っていない枯れ枝や、切ってもここに集めきれてない枝があるんですよ。
それらを集めたところで、野焼きして片付けたいんですが、
草刈りなどがあって、そこまでまだ、片付いてないんですね。

しかし、そろそろ早生みかんの色づきも始まりだします。
みかんの収穫は、いよいよすぐそこまで来ています。








Last updated  2021年09月17日 18時55分22秒
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​ヘーゲル『大論理学』32 第三巻・三篇理念4 全体図​

『大論理学』の学習も32回目、最終篇第三巻・第三篇「理念」に入ってますが、その4度目です。

今、私の近隣では、迷惑をこうむっている人がかなりいます。
当方が、ヘーゲル学習についてしきりに感想・意見を求めているからなんですが。
50年前の学生時代の同窓生にも、20年前の地域の学習サークルの面々にも、この人ならと思う人に、突然にそれへの意見をもとめたりしているんですね。まったくもって迷惑な話なんですが。
もしも立場が逆であれば、「うるせえ! こっちは忙しいんだ」などと対応するかもしれないんですが。ありがたいことに、この藪から棒の求めに対して、なかには意見を寄せてくれる奇特な人たちもいるんですね。こうした応対はじつに大したものだと思うんですよ。
しかし、当たり前ですが、1億2000万人の圧倒的には深い沈黙です、それも当然だとは思うんですが。




さて、この間の3回の第三巻・第三篇「理念」論レポートですが、
その内容を振り返ると、1.私なりにヘーゲルに接近するには、どの様な読み方の工夫をしているかの問題と、2.難渋な大著を攻略するには、大体でもよいから全体図をもつことが大切だとおもうこと、3.レーニンという人は『哲学ノート』で、この『大論理学』をどの様に読み解いていたのか、だいたいこの3点について紹介してきたつもりですが。

今回は、いわば番外編です。私の「理念」論の全体図についての勝手な主観です。
この第三篇「理念」を読んでいく上で、私なりにどの様な全体像を想定しているのか、この問題を紹介させていただきます。自分なりに勝手に描いている「理念」論の絵図です。
これは、『ヘーゲル論理学入門』(有斐閣新書)や『1831年の論理学講義』などを読んで、私などが描いた『大論理学』の概略なんで、本体はまだこれから挑戦するところなんですが。

一、まず、そもそも「理念」とはなんなのか。
『理念』と聞くと、私などがイメージとして描いていたのは、ものごとの理想的な姿といったものだったんですが。まず冒頭でヘーゲルは注意しています。私などに対して釘を刺しているんですね。

まず最初にヘーゲルは、理念というのは、そうしたたんなる主観的な表象ではないんだと。理念は主観と客観の統一であり、実在的なものなんだと。理念は、客観的なものであり、実在的なものなんだと。
私などは、これまであまりこの点に突っ込んで考えたことがなかったものですから、ヘーゲルの言おうしていることが理解しにくいわけです。しかし、ヘーゲルはその点に、まず最初に注意を喚起しているんですね。理念は、たんなる主観的なものじゃなくて、客観性を持っているものだと。

二、ヘーゲルは理念はどこから発生してくるのか、その起源の問題を提起しています。

第三巻「概念論」の、その前の第2篇「客観性」で、ものごとの客観的な関係について、1.機械的関係、2.化学的関係、2.目的的関係が、この三っを分析しています。
ヘーゲルは、理念はこの目的的関係から出て来るといってます。
目的的関係というのは、意図(計画)が、素材や手段を使って、新たなもの(意図したものを)を生み出すということですが、ここには意図(主観的な事柄)が、その結果において実現する。人間の労働過程もその一例でしょうが。
ヘーゲルはこの三要因(意図-手段-新たな結果)が一つのものになっているのが「理念」だというんですね。

それまでは、機械的関係にしても、化学的関係にとしても、、ものごとの客観的な必然的な関係ですよね。目的的関係において、はじめて人間の意図、主観的概念が問題になってくる、ここから主観と客観が統一する認識、理念というものが発生してくると言ってます。

三、ヘーゲルはその「理念」を三つの段階をもつと指摘しています。
すなわち、第一が生命、第二が認識、第三が絶対的理念です。
これが『大論理学』の最終篇の第三巻・第三篇「理念」の内容となっているわけです。

今、主題となっている「認識」ですが。
認識は過程なんだ、と。
その認識には、理論的方法と実践的方法があって、その理論的方法には分析的方法と総合的方法がある、と。この「認識」が、これから私などが学習しようとしているところです。

四、最後の「絶対的理念」ですが。
あれこれの理念。それらの理念の一般な理念、理念の中の理念ということですが。
その一般的な理念が、それが弁証法なんですね。
一般的という意味は、自然、精神(社会)、人間の思考、これが世界の三分野ですから。
ようするに世界のすべてにおいて貫かれている法則性としての弁証法だというんです。

「結論は始めなり」で、この論理学で探究してきた結論的なことは、万事に通じる一般的法則性なんですね。それが理念の理念、「絶対的理念」なんです。

もしも人間がこれとその関係を理解して、意識的に駆使するならば、個々の科学の諸分野での探究方法となることはもちろんですが、その科学的探究よりももっと広く、そもそも人間の基本的な物事に対する対処の仕方において実りあるものにすることができる、そんな世界観的な事柄をヘーゲルは述べているんじゃないかと思います。まぁ、これからあたって、確かめることですが。

五、さらに、もう一つ。ここから先は、ヘーゲルを越えちゃうんですが。
ヘーゲルは客観的観念論者ですから、概念というものが先にあって、この思考の論理的展開が第一義的であって、自然界はその照らし返しでしかすぎないと、ようするに概念(精神)を第一義的な根本と考えているのがヘーゲルです。
これに対して、しかしそれは逆立してるんじゃないか。自然の動きこそが根本的なもので、それを人間の頭脳(精神)がとらえたとの関係、転倒をただす見方を提起したのが、マルクスやエンゲルスの主張した唯物弁証法ですね。考え方の立場は対照的ですが、ものごとの弁証法的な発展をとらえる点では、この両雄ですが、ヘーゲルから学んでいると思います。ヘーゲルの提起を、マルクスは社会発展の唯物史観として、歴史の見方(理論)として確立し、経済学と歴史の批判的検討から『資本論』という具体的な著作として残したんですね。
まぁ、しかしこれは、ヘーゲルの『大論理学』を学ぶという域を越える、新たな歴史観の発見と、一つの個別分野での成果ということで、次のステップですが。

以上が、私などの『大論理学』第三巻・最終篇を、これから学習していく上での、一般的な絵図です。
実際には、ヘーゲルは、カントをはじめとする哲学の歴史を、諸科学の歴史を検討するなど、20年以上のうん蓄を、あの『大論理学』の分かりにくい表現の中で展開してますから、これは当たって見ればすぐにわかりますが、それを追跡するのは、とても至難なことなんです。
しかし、大まかにでもこうしたイメージをもって臨むならば、そのすべては分からないにしても、素人の私などにとっても、ある程度は大事な成果が学びうると思っています。
これは、やはり、人類の貴重な知的遺産だと思っています。
しかしそれが、名前ばかり有名であっても、ちっとも具体的な中身が踏み込まれていない歴史の事態をみるにつけ、これではもったいない。私などでも、少しは光をあててあげたくなるのは、当たり前なことと思っているんですが。それが責任だと思うんですが。

そうしたことで、次回は、第三篇「理念」の第二章「認識」に入ります。







Last updated  2021年09月17日 19時27分52秒
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2021年09月14日
カテゴリ:政治

​新しい政治をつくる時​

私などがみかん畑で草刈りをしていた時に、歴史は動き出していました。
9月8日(水)の昼には八王子を出てきたんで、その日の全体的な動きまでは、キャッチできていなかったんですが。
 衆議院の任期満了が10月21日にせまってますから、必ず選挙があります。
9月8日に四野党が共通政策で合意しました。



これまで、60年代、70年代と、野党がまとまることは、地方自治体の選挙ではあっても、
大衆運動ではあっても、国政では「社交合意」以来なかったじゃないですか。
それまでだって、国民にはわけの分からない、メンツのようなものがあって、
「オレの方へ来い」いや「対等・平等でなければ」・・・、やむなく「からかさ」とか。

今回、国民の声に押されて、四野党が共通政策で合意した。
これはそうした歴史的な経過からしたら、画期的だと思います。

合意した政策自体を見れば、ある意味では当たり前のことですが。
問題はありっこないんですが、
しかし、安倍・菅の自公政権のすすめてきた政治と対比したら、
これが日本の新たな国民政治への転換を意味していることは、その姿が明らかになります。



この対比を見て感じるんですが、

自公政権というのは、かっこうは、ことばのうえの建前としては、共通政策的なことを言うんですよ。
しかし、実際やっていることは完全に裏腹な所業じゃないですか。
そうしたことを、自公でずーっと続けてきたじゃないですか。

政治とは、国民を曖昧なことばでごまかす、そんなテクニックになっちゃっていて、
これじゃぁ、政治的理想も、民主主義も、ごまかしの中に消えていくわけです。
被害だけは、つけだけは国民にまわして、好き勝手をやってきたわけです。

しかし、今回、共通政策がまとまったということは、
全国の中央レベルでは、変える側の、新たな政権の構成のあり方の問題。
ここの選挙区での候補者の調整、一人区でどのように一本化するか。
それが、急ピッチで調整がことがすすめられる求められてます。
土壇場でまとまるようでは、国民に伝える時間が少なくなりますから。

他方、私などの下世話の、一介の国民としては、
比例の政党選択選挙をどう進めるのか。そして一対一の選挙で白黒、明暗を自分たちの周りに明らかにするにはどうしたらよいか。
政治のことなど話し合ったことのない、これまでの生活習慣を、どの様にして無理することなく変えていくのか。
勝っちゃった場合、政治に対する責任を、これまでのような野党的な外野席からの批評・批判ではなくて、実際の状況をどこからどの様に変えていくのか。
そうした力を、自分たち自身にどのようにつくり出すのか。
こんなことが、問われ出しているんですね。

大きくは、アメリカでも、日本でも、偏見のない人たちが、この政治転換を求めているわけですから、大勢は夜明けの可能性を大きくしているわけです。
だからこそ、既存の側としては、このピンチに、弁護士の肩書を使っての暴力政党よばわり、野党共闘への泥かけの謀略的動きも出てくるわけですが。

これから1カ月余ですが、今の国民的な苦難をすくう機会です。政治を転換させることでそれを打開する、そんなチャンスになっているわけです。
これまでにもまして、注目すべき時にあるということです。







Last updated  2021年09月14日 09時13分40秒
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2021年09月12日

​ヘーゲル『大論理学』31 三巻三篇二章「認識」その1​

最近、私などは感じているんですが、名にしおうヘーゲルだし、その主著『大論理学』ですが、
私もそうでしたが、多くの素人が、その高名からして挑戦して、きっとその難しさに投げ出したでしょう。
他方、哲学の研究者は、その責任感から全体を理解しようとはするんですが、その難解さの苦しさから、よく理解できないことから、自己勝手な解釈論をはじめだすんでしょう。

その一方、科学的社会主義の権威者とされる人は、教科書的な解釈をするだけでお茶を濁している。
こうした中で、一部の地道な努力があるんだけれど、この難攻不落の山を解きほごそうとして、いろいろな努力をしているんだけれど、貴重な努力の成果があるんだけれど、それは一般には目につかず、あまり知られることはないんですね。
だいたい、私などがみるところのヘーゲルをめぐる目下の状況です。

それはともかくとして、
今回からヘーゲル『大論理学』の第三巻「主観的論理学または概念論」、
その第三篇「理念」の第二章「認識の理念」にはいります。




今回でヘーゲル『大論理学』の学習も31回目です。
あと残りは、第二章「認識の理念」と第三章(最終章)絶対的理念、この二つです。

今回から、第二章「認識」に入りますが、
最初にあたり、私などがこの「認識」論にどの様に接近するか、です。

面白いと思いませんか、この「認識」ということが、私たちにとって日々問われる認識ということが、この大部な『論理学』の展開からして、その終わりから二番目のテーマになっているんです。
いったいヘーゲルは、この「認識論」においてどの様なことを展開しているんでしょうか。

まぁ、この「認識論」への想像や期待はともかくとして、この難書への接近をどうするかです。

一、この難書を越えるための方法ですが、
これまでもの方法の一つですが、ヘーゲルが同じ対象・内容を、いろいろな著作でどの様に論じているか。それらの著作を比較するすることが、中身に迫っといく一つの方法だと思っています。

この第三巻・第三篇・第二章の「認識」ですが、
1、1816年に書かれた「大論理学』では68ページを使っています。これが本格的な最初の論文です。
2、『小論理学』、その第三版は晩年の1830年刊行ですが、岩波文庫で16ページ分です。これ大学での講義のテキストとして、くり返し使われてきたものです。
3、『1831年 論理学講義』では10ページ分です。これは晩年にヘーゲルが実際に講義したその記録です。限られた時間に、若者たちに中心が伝わるように配慮されたものです。

この『論理学』の3書は、その中身は同じはずなんですが、それが出された時・場所・聞いている相手・全体の持ち時間、などによって、その同じ内容がそれぞれの条件で表現がいろいろ違ってくるんですね。
私などは、この難書を理解するには、この同じことの表現の違いを比較して、その言いたい点を理解することが、この難書を攻略する一つの方法だと思っているんですね。

その点では、この『大論理学』ですが、これははじめて本としてまとめ刊行物ですし、学者間の論争にすきをつくらないようにと、くり返し推敲されてち密に書かれているんですね。おそらくこれを理解するのが難しいのは、この事情にあるんじゃないかとおもっています。

二、この『大論理学』を理解するための方法として、もう一つは、この書の全体観を大よそにでももって、ここの論述(細目)にあたることが大事じゃないかと。これはヘーゲル自身もアドバイスとして述べていることなんです。
確かにヘーゲル自身も、全体の序論をかいていますし、各章のはじめには「まえがき」にあたるものを書いています。これが、本論を理解していくためのヒント(案内)になっているんじゃないかと思います。

今回の「認識」の場合ですが、『小論理学』では、第223節、224節、225節がそれにあたります。
これらの節がおおよその案内にあたる、それは本当でしょうか。

その内容ですが。
その受け止め方はいろいろあると思うんですが、私などはは、少なくとも次のような諸点が含まれていると思っています。

もちろん主題は、人間の「認識」ということです。
そのまえがき部分からですが、


1、認識とは何か。論理学にとって認識とは何か、ですが。
人の主観が、対象である客観的なものをとらえる、ということですが。この基本的な「認識」ということについて、ヘーゲルはいろいろ考察しているんです。
ヘーゲルは客観的観念論者です。注意して読むと「客観的なもの」といっても、それは「客観的なものとしての思想」なんです。対象としてのものではなくて、対象としてとらえたところの思想なんです。ものじゃなくて思想なんです。ものか観念なのか、この違いは大きな問題であり、違いです。
人の主観ものをとらえる、これは人がとらえた観念ですが、しかしそれは対象そのものではなくて、観念・思想としてとらえた客観性であり、客観性としての思想だというんです。
ここに大きな違いがあることが分かりますか。観念論者としてのポリシーがあることが分かりますか。

しかしそうなると、主観的な概念と、対象の客観的概念の二つの概念(観念・思想)が出て来る。
素朴には主観と客観の関係ですが、ヘーゲルにとっては思想・概念の二つの分割があるとみているんです。
その上で、主観的観念が客観的な概念をとらえること。この「とらえる」ということをめぐっても、カントやフィヒテ、ヒュームの不可知論・懐疑論が「『物そのもの』というのはとらえれない」といってるのとは違って、ヘーゲルは理性は現実のなかにあるし、人はそれをとらえることができる、これが認識なんだ言っているんです。この違いが分かりますか。あのゴタゴタした表現の中で、これを言いたくて、これを説いているんです。これがヘーゲルの功績なんです。

2、この認識の活動には二つの仕方がある、とも言ってます。
理論的なものと実践的なもの、分析的なことと総合的なこと、この二つの仕方があると。

理論的なことというのは、対象を分析していく方法なんですが。客観がまずあり、その対象の真相を知ろうと分析していく、我々がふだん日常的にしていることなんですが。
もう一つの実践的な方法というのは、総合ということですが。今度は主観が中心で、人の主観な意図が描いたものに、対象としての客観を変えていくということです。「世界を変えて、世界を主観的なものに適合させ」(『論理学講義』P239)るということです。

この二つの認識の方向、方法の違いをヘーゲルは指摘しています。

私などは、マルクスの『資本論』を読もうとした時に、マルクスには『経済学批判の序説』という論文があって、そこでは上向法と下降法との二つの道が説かれていました。マルクスのこの二つの方法というのは、このヘーゲルの論理学とも重なってくるんですね。それが考え方のもとになっているんですね。こんなつながりあいがあるんですね。
いったい、どの様な重なりがあるのか、それは今後の問題点ですが。

これから第二章「認識」を学ぶにあたって、ざっと読み始めたときに、うかんできたところの雑感です。

これからこんなことも、念頭に置きつつ、「認識」を探っていきたいと思います。







Last updated  2021年09月12日 22時15分18秒
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2021年09月11日

​早々に完売した今朝の朝市​

9月11日(土)、午前8時30分に店開きした多摩の団地朝市でしたが、
当方の提供した産物は、9時5分には完売しました。



まだ地元・多摩市の農協から農産物が届く前に、当方の小田原からの産物は販売を完了しました。

というのも、みかんは早生が10月半ばくらいから始まりだすわけで、
今の時期は、みかん農家にとっては草刈り期で、嵐の前の静けさなんです。
小田原からの産物は少ないんです。

そうしたことで、農家が出してくれたのは、
レモンと、ミョウガ、大根の間引き菜の3品だけだったんです。
まぁ、たまには早く帰って休憩するのも大事なことなんで。

朝市自体は、群馬からのリンゴやシイタケをはじめ、多彩な産物が並んでましたから、
団地の人たちも足を止めてくれているんですが。
これからそれに、多摩の野菜が運ばれてきますから、これからが佳境に入っていくわけですが、
そうした中、当方は、いち早く帰宅させてもらいました。
今、ひと休みしているところです。








Last updated  2021年09月11日 10時02分50秒
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​ヘーゲル『大論理学』30 第三巻・第三篇理念、その2​

ヘーゲルの『大論理学』というと、もうそれだけで、はなから「難しい」とのトラウマをもつ人を見かけます。私などの経験からも、その気持ちは分からないわけじゃないんですが。
しかし、少なくとも科学的社会主義に関心をもっている人にとっては、『空想から科学へ』『フォイエルバッハ論』などを参考にして、先人とヘーゲルとの相互関係に、弁証法を生きた形でつかむために、この課題に一歩でも足を踏み込むことが必要だと思っているんですが。
それが、今のような激動の時には、欠かせない大切なことになっていると思っているんですが。

前回、『大論理学』を理解する方法として、
1、ヘーゲルも同じ中身を『小論理学』でも述べているから、その箇所とを比べてみること。
2、それを言葉として解釈しようとするではなく、自分なりの言葉に「翻訳」(意訳)してみること。
3、そこでは何が問題なのか、先人の努力についても探ってみること。
こんな学習の仕方を紹介しました。
中身については冒頭の一文の紹介だけでしたから、今回はその中身についてみてみます。





一、「理念とはなにか」、この出発点の問題ですが。
ア、理念とは、一般に個々人の主観的な表象(・・だと思う)の意味でも使われるけれど、カントが指摘したけれど「理念」と「表象」とは違うんだ、理念は「概念」なんだと。ヘーゲルはこのカントの指摘を引き継いで「理念とは、即自かつ対自的な(客観的な)真理であり、概念と客観性との統一であること。理念が真理だということは、客観が主観的概念に一致することだ、と。
これはヘーゲルが『大論理学』での論旨を、『小論理学』の冒頭でより端的に述べたものですが。

イ、その先でカントと違ってきます。
カントは経験と理念とは違ったもので、理念は理想の様なもので、それに経験はそれに近づいていくけれど、それをとらえることは出来ない(経験と「物自体」との関係)ものだと。これに対してヘーゲルは、客観性の中に理念はあって、「客観は主観的概念に一致するんだ」、すなわち、近づくだけのものではなくて、とらえれるんだ、と主張しているわけです。

このカントとヘーゲルの理念に対する考え方の違いですが、この点を考慮するところに大事なポイントの一つがあると思います。ここには、物事に対する態度の違いがでてきます。真理に接近していく過程にでの主体的姿勢の違いにも関係してくるわけです。これは、日常的に私たちも体験している事柄で、基本姿勢にもかかわる問題でもあるわけです。

二、レーニンの『哲学ノート』ですが、
ア、以上の「理念」の問題について、レーニンは『大論理学』と『小論理学』との冒頭部分を書き抜いて、同じ趣旨ではあるんですが、それぞれの表現を書き抜いて、内容を検討しています。
全体は長いものですから、じかに確かめていただくしかないんですが、
前回(29)の学習で、その冒頭の部分だけを紹介しておきました。

イ、次いで、レーニンはヘーゲルの文章を、自分の言葉に翻訳(意訳、置き換え)しています。
一か所だけ例をあげれば、

まずヘーゲルを書き抜いてます。「理念は・・認識および意欲として、真なるもの及び善なるものの理念である。・・この有限的認識及び行動の過程が、最初は抽象的であった普遍性を総体性となし、これによって最初の普遍性は完全な客観性となる。」(『小論理学』第243節)

これに対して、これをレーニンは自己の分かりやすい言葉に置き換えます。
「理念は人間の認識と衝動(意欲)である。・・・(一時的な、有限的な、制限された)認識と行動との過程が、抽象的な諸概念を完全な客観性に変える。」
全体のごくごく限られた一部分しか紹介できないんですが、どの様な努力をしているかは分かると思うんです。

どうですか、ヘーゲルの文章というのは、多くの人がつまづいてしまう、そのわけがよく分かるんじゃないですか。難しいとトラウマになるのも分かるんじゃないですか。しかし同時に、よく注意して読むとその中には確かに大事な中身を含んでいる、レーニンはヘーゲル特有のいいまわしを努力して翻訳し解読してるんですね。この仕方というのはマルクスも『ヘーゲル法哲学の批判』でやっていることなんですね。

それは凡人にはそうそう簡単にできることではないんですが、でも先人が努力した記録が・結果が残されているわけですから、それを生かすようにして学ぶことは、凡人の私などですら可能なわけなんです。なのにどうして、専門の研究者がそうした努力をいかさないのかが、不思議なんですが。これは学者・研究者として知的遺産に対する怠慢だと、私などは勝手に思っているんですが。

ウ、この『大論理学』からの、この解読から、レーニンは自らの見解をまとめてメモしています。
といっても、この引用箇所の前にあるもっと長い翻訳(意訳)から引き出してきている見解なんですが。

「(これらが意味している事柄というのは)認識とは、思惟が客観に不断に、無限に接近していくことである。人間の思想における自然の反映は、死んだ、抽象的な、運動を書いた、矛盾のないものとしてりかいしてはならず、運動の不断の過程、矛盾の発生と矛盾の解決との不断の過程のうちにあるものとして理解しなければならない。」(165)

レーニンは、対応する『小論理学』(第213節)の意訳もやってますが、その翻訳は省略させていただいて、引き出した見解を、見解だけですが、紹介します。

「現象、現実性のすべての側面の総和とそれからの(相互)諸関係―これらからこそ真理は構成される。もろもろの概念の諸関係(=諸移行=諸矛盾)=論理学の主要な内容、しかもこれらの概念(およびそれらの関係、移行、矛盾)は、客観的世界の反映としてしめされている。事物の弁証法が理念の弁証法を創造するものであり、その逆ではない。」
さらにこの自己の見解に、補足のコメントをつけています。

「ヘーゲルは事物(現象、世界、自然)の弁証法を、概念の弁証法のなかで、天才的に推知した。」
さらにこれにも続きがあって、レーニンは一度まとめたことに、何度もくり返し考慮していたことがうかが、次のメモからうかがえます。

「この警句は、もっと平易に、弁証法という語をつかわないで言いあらわされるべきであったかもしれない。たとえばこんなふうに―ヘーゲルは、すべての概念の変換、相互依存性のうちに、それらの対立の同一性のうちに、諸概念の不断の変換、不断の運動のうちに、事物、自然のまさにそのような関係を天才的に推知した。」
さらに、

「まさに推知した、それ以上ではない」

さらに、これらの『小論理学』で言えば、第213節、214節、215節の全体を振り返って、
レーニンの問題意識ですが、
「弁証法とはどういう点にあるか?」とといかけ、ここでは6点をあげています。

三、『大論理学』の学習ですが、レーニンはどうしてこの学習をしたのか。
第一次大戦の勃発した最中です。社会主義者の先輩たちが祖国防衛論の戦争を肯定する流れが出て来る。こうした中での政治指導者ですから、緊張した切迫した渦中にあったレーニンですが。
それでも、『大論理学』から生きた弁証法を学びとろうと努力していたんですね。

『どうして、今ヘーゲルの論理学なの?』当然出てくる疑問です。
今の日本社会もある面で、レーニンのそのころと似ている面があるんじゃないですか、また他面では戦前のようなアカ思想だとされて取り締まるような自由の否定はないわけです。先人の苦労の結果による民主主義の社会にいるわけです。
だから、同じような同行者も出て来て当たり前かとは思うんですが。期待もするんですが。
しかし『『大論理学』はむずかしい』なぞと御託を並べる人もいるわけです。反応があるだけまだましで、この人こそと期待しても、箸にも棒にもかからない、黙して手も足も出さずにいる人も多々いるわけですから、自己の世界に埋没してる。これは一種の自由ボケというか、あぐらをかいての宝のもちぐされの状態なんですね。

しかし、もう愚痴ちるのはやめます。そんな他人を愚痴っても時間の無駄ですから。

とにかく他人はともあれ、私は行くということです。
なんとか『大論理学』の終わりまで、どんなにつたなくても、たどりつくということです。

今回は、愚痴っぽくなりましたが、これも現実の一つの側面だということです。







Last updated  2021年09月11日 05時58分55秒
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2021年09月10日

​相模湾の海の幸​

9月9日(木)の小田原のみかん園は雨。
雨が降っては、草木も濡れていては畑仕事は無理です。
それで、小田原(早川)港へ出かけました。

山仕事と違って、海の幸は雨の天気にもかかわらず何がとれるかわかりません。
それは、何も獲れないこともあのますが、逆に何かしら獲れることもあるからです。
獲れる時もあれば、何もない時もある。
雨が災いする農夫と違って、漁業は天気は悪くてもそれでも幸することもあるんですね。
そこが、農夫と漁師との大きな違いです。
小田原・早川は、みかんの山の幸にくわえて、海の幸も豊かなんです。

今回の早川港ですが、
海の恵みの第一は、ムロアジでした。



鰺と言っても、鰺にもいろいろな種類があるんですね。

相模湾は外洋に接してますし、深海にも接していて、
東京から1-2時間の近郊にありながら、魚種がたいへん豊かなんだそうです。



カマスもありました。



一番は、カツオなんですが。
カツオの刺身なんて、最高なんですが。
残念ながら、人間の一人の胃袋では、これはとても食べきれません。



カツオといえば、土佐の1本釣りが有名ですが。
昔は、小田原もたくさんのカツオが獲れたんださうです。
今でも、小田原の海岸の通りには、かまぼこ屋さんの並びに、鰹節づくりの老舗があります。

魚の回遊も、自然条件の変化によって、敏感に変化しているんですね。
今から60年くらい前には、みかん園のある真鶴町岩でも、寒ブリで大漁旗が立ったんですよ。
遠い記憶としては、ブリを、朝、昼、晩と、それが2日も3日も、だされました。
刺身だ、やれ煮つけだ、やれ塩焼きだ、と嫌というほど食べさせられたこともありました。
大きなぶりまるごとが、1200円とか、1500円とかだったんです。
(もちろん、今とは貨幣価値が違いますが)

今では遠い記憶の世界となりました。
信じがたいでしょうが、私などの、本当にあった懐かしい思い出です。

そして、多少形をかえてはいますが、今でも相模湾の恵みを味わえる次第です。







Last updated  2021年09月10日 18時26分39秒
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​『人新生の「資本論」』(斎藤幸平著)を読む​

斎藤幸平著『人新生の「資本論」』(集英社新書)をご存じでしょうか。

コロナで同窓会が中止になったんですが、
その時のやりとりの中で、「NHK100分で名著」での斎藤幸平「甦る、実践の書 マルクス資本論」が話題となり、複数の人から紹介がありました。今年の1月に4回で放映されたんだそうですが。
当方はみかん仕事の渦中だったんで見ていなかったんですが。

それがきっかけで、なんとか再放送を1,2回見ました。しかし全部は見れなかったんです。
それで、中身を確かめたくなり、NHKテキストを取り寄せてフォローしてみました。
その時の印象は、環境問題にら『資本論』に注目したんだな、
マルクスが後期になって唯物史観の考え方をかえたと新解釈をしている、
よくある、知ったかぶりの勝手な解釈論の類だ、くらいの印象だったんですが。

この9月にはいって、数日前ですが、書店で『人新生の『資本論』』を入手して、読んでみたんです。
といっても、まだ第四章「人新生」のマルクス、を読んだだけなんですが。



印象は、第4章のマルクス論を読んで少し変わりました。

まじめに34歳の若き研究者が、マルクスと『資本論』を研究していることを知りました。
だいたい、私などの周りでは、『資本論』を天まで持ち上げるんですが、本をもったことはあるんでしょうが、それを本当にひも解いて読んでいるのか、首をひねることが、一般的だったんです。
それはそうなんですね。この大著をねばり強く読み通すなんて奇特な方は、世の中にそうそう多くいるとはおもえないんです。勝手な解釈ばかりして、読んだ格好だけはつくろっている人が、多いんです。

まず驚いたのは、この本が、いま日本社会に30万部を突破して広がっているんだそうです。
日本は、戦前からマルクス研究では、脈々として国家・警察権力の弾圧に抗して、続けられた歴史がありますが。今日、戦後の自由社会において、そんなことは一部の人の認識で、多くはそんなことは問題にならならないじゃないですか。
そう思っていたのに、この『資本論』に関する本が、30万部を突破して読まれているとは、国民の良識もたいしたものですね。

それとこの本は、まじめに、マルクスの考え方を探ろうとしています。しかも若い研究者です。
これは、それだけでも、一つの希望を感じさせてすね。

ただ、私などは感じるんですが、一般に研究者が弁証法をしっかり学んでないんですね。
そのために、マルクスの主張を矛盾した混乱したものとってしまうきらいがあるんです。
それは、この斎藤氏がそうだということではないんですが、まだ私はそこまで言えるほど読んではいないんですが。
あくまで、大きな一般論として、マルクスを研究している大御所的な人たちのなかでも、哲学・弁証法的考え方が教科書的な理解にとどまっていて、そのために解明するのではなく、勝手な混乱した見解をならべて、さも新解釈を見つけたかの如く言っているのを見聞するんですね。

そんなことで、新しい見解というものには、私などは、すぐにまゆつば的な感じを持つんですが。
しかし、この斎藤幸平氏の見解は、未だマルクス論しか読んでないんで、全体的見解は分からないんですが。全体的な評価はまだできないんですが。それでも、新たに提起している見解の是非はともかくとして、少なくとも誠実に真摯な姿勢で、マルクスと『資本論』を探究していることはうかがえます。そこに未来を感じます。

これから、この本の全体を読んで、その見解を吟味させていただこうと思っています。
どの様な見解を提起しているのか注目ですね。
それと、30万余人の読者が、どの様な感想をもったかも、知りたいですね。







Last updated  2021年09月10日 15時43分24秒
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2021年09月07日
カテゴリ:政治

​気候変動対策で共産党の記者会見​

9月1日(水)、日本共産党の志位委員長の気候変動対策の政策発表の記者会見がありました。
政策説明が30分、参加者との質疑が30分くらいの、合わせて1時間ちょっとでしたが。

https://www.youtube.com/watch?v=-23nE_lw8AY


これは注目されるべき中身です。
後から知れば、同じ時に菅総理の総裁選に出ないとの自民党役員会が行われていたということですが。
二つの党首の、明暗を分けている事態が、同じころに展開されていたということです。

目と耳で聞くだけでは、この「気候の危機打開する政策」を受けとめるのは容易ではないと思うんですよ。
私などは、9月2日付の「しんぶん赤旗」で、その発表があったことを知ったんですが。




逆の時間でして、
前々日からの草刈り仕事に出ていて、後でそのことを知ったんですが。
「しんぶん赤旗」の長い活字でその記者会見と政策を知ったんですが。
草刈りで疲れたコンディションでは、それを読み通す気力もなく、一体どうしたものかウロウロしてたんですが。

共産党のホームページで、記者会見の様子を見ることができました。
このインターネットでの記者会見と、「しんぶん赤旗」の発表文とを合わせ見て、得心しました。


今、日本と世界が直面している、ある意味で地味な、しかし切実な大問題に、どう対応していくか。
この気候危機への対応策は、大事な提起なんだということを、再認識させてもらいました。

子の政策発表の記者会見は30分くらいでした。
それとその後に、30分少しですが、参加した記者との質問時間がとられたんです。

政策の中身も注目でしたが、この質疑が、またすごかったんです。
最後の質疑なんて、自民党の役員会なんてこの参加者は知る由もありませんが、
それと「客観性」というか、質疑の中身が完全に重なっているんですよ。

ということで、9月2日付の「しんぶん赤旗」とこのインターネット会見とは、
動いている今の政治に対応しており、なによりも今の日本社会の必要性に、
ぴったりと答えたものたものだったということを、
誰にとっても、確認してもらえる中身なんだ、ということしめしていると思います。
不思議ですが、「客観性」ということは、そうした面をもっているんですね。

問題は、切実です。
是非、ご覧いただけたらと思っています。







Last updated  2021年09月07日 17時22分42秒
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