2012/11/14(水)05:22
今は遠くなった故郷を思い起こさせてくれる、芥川龍之介の「トロッコ」
芥川龍之介著「トロッコ」を、懐かしく読みました
11月11日に、中伊豆に小学校の恩師を訪ねた時に、
いろいろな話の中で、芥川龍之介の「トロッコ」のことが出てきました。
「ぜひ、読んだ方が良い」と紹介していただきました。
この芥川の作品は、本棚に埃をかぶって、気にもとまらずに持ってはいたのです。
あまたのものとともに、放置されて埃の中にうもれていました。さっそく、引っ張りだしてみたのですが。
これは、芥川龍之介の大正11年2月の、小さな作品です。
たった5ページの短い作品ですが、芥川にこんな作品があるなんて驚きでした。
それは、私などの故郷・真鶴方面の遠い昔の雰囲気を漂わせていました。
なつかしい、遠い世界への郷愁を感じさせてくれる作品だったんです。軽便鉄道の熱海線をつくるための工事、
そこで使われていたトロッコにまつわる、子どものころの話なんですね。
そのころ、1922年(大正11年)ころの追憶を描いたものなのですが。
豆相人車鉄道から、この軽便鉄道をへて、東海道本線につながったんですね。
その軽便鉄道を建設していたころの話です。
どんな点に郷愁を感じたか。
戦後の1950年生まれの当方としては、もちろん生の当時を知る由はありません。
しかし、昔の姿が、子ども心の追憶として重なる部分があるんですね。
1、今は町村合併されて、真鶴町岩ですが。
私の小学校の初めのころまでは「岩村」(いわむら)だったんですね。
その固有の名前を聞くことはなくなりました。
この小品のなかに、その名前が出てきました。
2、さらに、あえて方言が、会話の中に書き込まれています。
「押してくれよう」(押してくれよ〔たのんでいる〕)
「われの家でも心配するずら」(お前の家族も心配しているだろう)
綺麗な言葉ではないのですが、親しみのある習慣ですが、
もしかして、ひょっとしたおりに、今でも耳にすることがあるかも。
3、おもいあたる景観が描かれてますが、いまでも大きくは自然はかわってません。
そのなつかしく、今に通じている景観を、いくつも描いていること。
「路線はもう一度急こう配になった。其処には、みかん畑に黄色い実がいくつも日をけている」(これは追憶のことで、みかん畑は分かるけど、前提となっている二月には実は着いていない・・、しかし、私が主人のいなくなったみかん園で、鳥たちの饗宴に分け入ったのは、2月中旬でしたから、作品通りウンシュウミカンが残っていたかもしれません)
「車は海を右にしながら、雑木の枝の下を走って行った。」
「茶店の前には花の咲いた梅に、西日の光が消えかかっている。」
そして、「岩村まできた」の名がでてくる。
「夕焼けののした日金山〔ひがねやま〕の空も、もう火照りがきえかかっていた。」(「ひがねやま」ではなく、地元では「ひがねさん」が一般的な呼び方かと思う)
これらの自然は、昔も、今も、そうたいして変わりません。4、いったい主人公は、どこに住んでいて、トロッコを押してどこへ向かい、どの辺でトロッコから別れて家に引き返したのか。
確かなことはわかりませんが。
おそらく、夕暮れの日金山の見える帰路と、岩村までの数倍の所まで行ったこと、右に海が開けた、などなどからすると、
江の浦あたりまで・・、いや根府川の近くまで行ったのかもしれない。8キロくらいはあると思います。冬の日暮れはつるべ落としです。うっそうとした、人気のない、細い線路道、それは淋しいものです。そこから、いくら一生懸命駆け戻ったとしても、2時間くらいはかかります。途中でほどなく真っ暗になってしまったでしょう。
必死になって、ひとりさびしい道を、家のある湯河原方面に向かって、夕暮れから暗闇になっていくのと競争して、駆けもどったのでしょう。
類似するような経験は、それぞれに、誰しもあると思うのですが。5、本の解説によると、芥川龍之介には、関係する職場に湯河原出身の力石平三という友人がいたようですが、彼の書いた回想をもとにして、この作品を書いたとのこと。
それで、話の輪郭は大体あってきます。芥川龍之介、この文豪はこの小品をよくぞ書き残してくれたものです。
そして恩師は、よくぞそれを紹介してくれてものです。
ここには、故郷のなまり懐かしく、その景観は今も大きくはそのままに描かれています。
その懐かしい追憶を、みごとな作品にして残してくれていました。
これを知らなかったののは、じつにもったいことでした。
とくに彼の地に生まれ育ったものとしては、懐かしの故郷がよみがえってきます。
これは大きな宝物だ、と感じさせられました。