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みかんの木を育てる-四季の変化

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2017年03月07日
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カテゴリ:生き方

再び箱根・大平台の林泉寺を訪ねました

(2013年) 3月6日、再び林泉寺と、内山愚童師のお墓を訪ねました。
この日の箱根は、綺麗な青い空がひろがり、
陽気も暖かく、確かな春の到来を感じさせてくれました。

写真: 011

今回の大平台行きも、湯治行きが目的ですが、
あらためて林泉寺を訪ねた目的の一つは、

 『仏種を植ゆる人-内山愚童の生涯と思想-』
    (曹洞宗ブックレット 宗教と人権8  2006年1月刊)

 この冊子を分けてもらうためでした。
(その内容は、全体を読んでから、後日紹介したいと思いますが)

写真: 024

内山愚童師について、残されている資料は限られていると思いますが、
この冊子が出されているのを知ったので、
これでおおよそだけでも、その人となりを知っておきたかったためです。

もう一つは、「内山愚童師の顕彰によせて」の碑文をについて、
やはり前回来たときに写したのですが、
それが正確かどうかを確かめることでした。

 林泉寺にある内山愚童師のお墓ですが、
その隣には、「顕彰碑」と「顕彰によせて」の二つの石碑があります。

写真: 009

お墓の本体は、手前のものでしょう。
何文字は刻まれていません。
それでしか、残せなかったのでしょう。
暗黙の墓がずーっと守られてきたわけです。

2005年(平成17年)4月25日に、曹洞宗総務総長が出席されて、住職などにより顕彰除幕と追悼法要がおこなわれたとのことです。

前回(3月3日)は、その「顕彰碑」については紹介しましたので、
今回は「顕彰によせて」を紹介します。
これは、曹洞宗総務総長が挨拶された基調でもあります。
曹洞宗僧侶として、愚童師は95年をへて名誉が回復されました。

『 内山愚童師の顕彰によせて

  其土地で死ぬ積で無ければ
  其地の人を救ふことは出来ぬと思ひます
 内山愚童師が友人・石川三四郎に語った仏教者としての叫びの声です。
 こう語った仏教者は、ここ箱根の大平台とそこに住む人びとをこよなく愛し、民衆の苦しみや喜びを自らの苦楽として仏の道を真っすぐに歩んでました。その途上、三十六歳の若さで刑死したのです。本人の遺言によって、その亡きがらはこの林泉寺の墓地に埋葬されています。愚童師のこころは今も、ここに生きているのです。

 一九一一(明治四十四)年一月二十四日、箱根林泉寺住職内山愚童師は、「大逆罪」により幸徳秋水らとともに処刑されました。これが世にいう「大逆事件」です。
この事件は、当時の政府が社会主義運動を一網打尽に壊滅させることを最大の目的とした、極めて冤罪性の強い暗黒裁判でした。愚童師の場合は、当時の不条理な国家権力への非難が昂じた発言にすぎなかったのです。
 曹洞宗も国家権力へ追随するかたちで、死刑執行の前年一九一〇(明治四十三)年六月二十一日付で「宗内擯斥」処分とし、愚童師の僧籍を剥奪しました。
 当時、世界の強国は軍事力をもって領土拡大に奔走していた時代であり、日本も例外ではありませんでした。国家は民衆の声や運動を封じ込めるために「大逆罪」を実体化し、その後の日本の体制のあり方と進路を決定づけました。これによって民衆は愚童師のいう「独立自活・相互扶助」の主体性を持つことを禁止され、人権や自由が抑圧され、世論が時の政治権力に都合の良いように操作されて、軍国主義の破局へと突き進んでいきました。
  宗門も時の国家体制に追随し、信仰の自由と平和を希求する良心をも放棄し、仏教者の誓願に背き、教学を歪曲してまで、積極的に戦時体制に協力しました。
  宗門は、真の仏教者であった愚童師に対して、あまりに不誠実であり冷酷でありました。人間としての尊厳と僧侶としての名誉を踏みにじったまま、八十有余年の歳月を埋もれさせてしまったのです。
 一九九三(平成五)年四月十三日、ようやくにして「宗内擯斥」処分を取り消し、宗門僧侶としての名誉の回復を宣言いたしました。
 私たちは今日、愚童師の先見性に改めて刮目しなければなりません。
  「戦争は総て罪悪也」
  「人類の終局目的は独立自活・相互扶助にある」
  「女子は男子の付属物ではない」
と、あらゆる戦争を拒み、独立自由と、異なる立場の人々との共存を理想として掲げ、女性の人権尊重までも主張しています。
 ここに、愚童師の仏教者としての遺徳をたたえ、宗門の罪過を心より懺謝するものです。
 最後まで僧侶としての誇りを失わず、理想世界を冀い、泰然として死に臨んだ愚童師に対し、その確固たる信念を永く顕彰し、宗門として「人権の確立・平和の維持・環境の保護」を啓発推進していくことを改めてここに誓願いたします。
         二〇〇五(平成十七)年一月二十四日 』

                    (実際の碑文は縦書きですが)

2013年3月7日のブログです。
私は4年前に内山愚童を知りました。その冊子をいただきました。
明治の自由民権の弾圧は、さらに大逆事件から治安維持法へと、
戦争推進の国内体制をつくろうとして、戦争に批判的な人たちはもちろん、
1931年満州事変からの昭和の14年間は、民主主義をすべて取り締まりました。
その結果が、戦争による敗戦、国民の大惨事です。
その反省が、現在の憲法の民主主義社会です。
宗門は歴史を反省してますが、政治の方は亡霊によるごまかしがつづいています。






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Last updated  2017年03月07日 08時29分38秒
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