3年前、ディーツゲンで哲学を学習していました
哲学の学習が必要なことは、いろいろな点から感じていたんですが。
何を眼目にして、何をテキストにして、どの様に学習するかでは、
それこそ、人の状況によって、いろいろな方法があると思います。
この3年前の私の場合は、ディーツゲンの『人間の頭脳活動の本質』でした。
エンゲルスが『フォイエルバッハ論』で唯物弁証法の独学者として紹介しています。
以前に、通読したところ、何を言っているのか、わからなかったんですね。
この間に、二つヒントがありました。
1つは、レーニンの『唯物論と経験批判論』のなかでのディーツゲンの書評です。
2つは、マルクス・エンゲルスの書簡集のなかでのディーツゲン書評でした。
これらもあって、分からないままに、『たがや』(やりっぱなし)では、まずいしもったいないと。
それで、再挑戦したわけです。
https://plaza.rakuten.co.jp/sagamimikan/diary/201501180000/
以前は、原本を忠実にすべて読み取ろうとして、苦労させられていたんです。
しかし、この時は、見ての通りです。
文節に番号をつけるようにして、大事な納得した点と、また大事そうな点についても、
要約も言い換えもしたとしてでも、とにかく書き抜きをしてみたんです。
すると、ディーツゲンが言いたい点が、ある程度ですが、見えて来たんです。
「2、思惟は頭脳の作用であり、頭脳の産物である。
4、思惟の一般的な目的は認識である。
5、前提、対象のない思惟はなく、思惟は自己を表現する客体を必要とする。
10、思惟は感覚世界の無数の活動のすべての代わりをすることは出来ないとの意味で制限されている。我々は客体を認識するだろうけれど、しかしどの客体も認識しつくすことはできない。
11、我々は世界をとらえる。その際、事物はそのままで頭に入れることは出来ず、その概念で取り入れる。そして頭脳の中には事物の無限の豊かさのすべてを入れる余地はない。
12、思惟能力は、感覚的部分から抽象的全体をつくりあげる。感覚的全体は抽象的世界の一部として理解する。
13、すべてのものは、他のものとの関連の中でのみ現れる。
15、すべての精神作用は、対象を前提とし、その対象が精神作用を生みだし、精神内容を与える。内容は、精神の外に存在する対象から、知覚され経験することによって生ずる。
19、経験なしに精神から認識を生みだそうとする思弁的方法、経験のみにより認識を生みだそうとする帰納的方法、両者の関係について。」
これは、第2章の初めの部分ですが、これを全体に対し頑張る必要があるわけですが。
それは、省略です。
とにかく、この基礎作業によって、ディーツゲンの一見とりとめもない議論の展開の中に、キラリと光る思想が、いろいろと見えてきたんですね。
やはり、古典の作品として、その一冊に加えられるべきことが、納得しました。
戦前の日本社会にあって、
先人がこの難書を苦労して翻訳しようとしたわけも、なるほどなんですね。
治安維持法のたいへんな思想弾圧のなかで、山川均氏により翻訳され、1929(昭和4)年に改造社から刊行されていたんですね。
題名は『弁証法的唯物論』となっていますが、
中身はこのディーツゲンの著作『人間の頭脳活動の本質』なんですね。
もっとも、哲学の学習が大事だとしても、
私などが思うには、その哲学の学習には、いろいろなテキストあるし、もっとスマートな方法もいくらでもあるわけですから。
このディーツゲンの道を、こうした仕方を、すべての人にお勧めするわけにはいかないのですが、
私の場合においては、「たがや」を避けるために、それまでの経過もあって、ここを通らなければならなかったわけです。
今読み返しても、ここでは四苦八苦している状況がありありなんですが、
それでも、前の3人のアドバイスがあったこともあって、「たがや」を返上した次第です。
このディーツゲンの著作も、唯物弁証法を学習する一つの道となることを確認しました。
いずれにしても、哲学による基本姿勢を堅持することが、
今日の日本の激動する社会の中にあっては、生き生きと現実に対応するためにも、
いまは、とくに大事になっていることを感じさせられています。