官僚答弁とご飯論法
「東京民報」の12月30日・1月6日号には、新春対談が掲載されています。
吉良よし子参院議員と上西充子法政大学教授による対談ですが、その中での二点を紹介します。
私はこの対談で、はじめて「ご飯論法」という言葉を知ったのですが。
よく的を得ています。
国会の答弁では、この種類のことを、しばしば聞かされていますから。
あらためて、はぐらかしで、聞かれたことに素直に、まともに答えない。
質問者の方としては、そのために本来聞こうとしていたことが、本題に入る前のやり取りで腰を折られてしまう。本論に入らせないように議論を交わす手口なんですね。
そんなやりとりを、国会ではよく見かけるじゃないですか。まったく馬鹿にした話です。
同じことですが、吉良議員が感想として指摘している問題です。
「私も国会に来たばかりのときは、官僚側の答弁を理解することにまず、時間がかかりました。質問したことに答えているのか、答弁の核心どこなのかをつかまないと、ごまかされて、話をそらされてしまう。ただ、そのひどさを、国会の外で話そうとしても、複雑でなかなか伝わりません。」
本題とされることについての議論を避けるためのトリックなんですね。
私は最近、ネルーの「父が子に語る世界歴史」を読んでるんですが。
1930年代のインドですが、この独立運動の指導者は監獄に入れられている。
その監獄の中で書いた手紙がまとめられたのがこの本なんです。
そこでは、配慮された言葉ですが、イギリスやアメリカ、フランス革命、マルクスと労働者階級、ポルシェヴィキ政権などについても、これは獄中で書かれた手紙なんですが、よく事実がつかまれ、中身が語られています。
日本の場合は、1930年代には、それらは禁じられ、弾圧された事柄です。
当時の日本とインドを比較した時、人民は抑圧されていたし、民主主義は弾圧の中にあったわけですが、それは共通ですが、そのなかみが、大きな違いがあるじゃないですか。
小林多喜二などは有無を言わさずに殺されちゃったんですよ。
その問題は、さらにさかのぼっての大逆事件にしても、そして治安維持法にしても、敗戦の結果、歴史の審判は下ったんですが。
日本政府の問題ですが、歴代の政権は、それへの反省の言葉を一切語らないし、訂正する態度についてきっぱりと明確にはしないでしょう。それどころか、安倍首相なんか、戦前を懐かしんで、むしろよみがえらせたいような本音を隠して、ごまかしているでしょう。そんな人が政治の最高責任者に座っている。
ネルーの手紙を読むと、1930年代の当時で、インドに比べて日本がかなり後進的で野蛮な情況だったことがわかります。
しかし、それから90年近くの時が過ぎてきたわけなんだけど、この後進性からの脱却はどの様に努力されてきたのか。憲法の下での70年の歴史があるわけですが。
それでも、日本では安倍のような政治家が幅を利かしている。この連中は私的な会合では自分たちの歴史観を語っても、公の場では語ろうとしない。それでいて、憲法の改悪へ引きずり込もうとしている。戦前のあり方へのはっきりした反省も語ろうとしないのは、語れないんですね。反省してないから語るものが無いんですね。
新春対談で議論された問題の基礎ですが、
ご飯論法の根底には、この問題が存在していると思うんです。
民主主義的な立脚点、憲法の尊厳を、はっきりしない政治家に明確に問いただす力を、主権者国民は厳しく持たなければならないと思います。メディアも安倍に忖度しているようでは、社会責任が問われると思います。
ここには、日本の資本主義の外見的な豊かさの中でも、依然として日本の精神生活の後進性からの脱却という課題が存在していると思います。