みかんの出稼ぎの人たち
「みかん作業の様子がわかるから」と、みかん園の園主さんが小さな冊子を持ってきてくれました。
それは、みかんの出稼ぎに来た人たちのアンケートでした。
「小田原公共職業安定所」作成のパンフレットで、
ガリ版とワープロを使って印刷されてました。
この冊子は、発行の年月日がありません。
いつころのものだったんでしょうか?
昔は援農者、出稼ぎの人たちの力を借りてみかん作業をしていたんですね。
その人たちの声が伝わってきます。
アンケートには、みかん作業で「つらかったこと」が項目としてあります。
みかん作業でつらかったことは、「運搬作業」とした人が多かった。
14人ですが、63%の人が、運搬のきつさをあげていました。
みかん畑は、相模湾に面した山の斜面にあります。
みかんを収穫して、道のある所まで運び出すのはきつい作業なんです。
今でも、車の入らない斜面は、収穫したみかんを運び出すのがきついんです。
賃金についての項目もあります。
賃金が安かったんでしょうね、「希望する賃金額」の項目があります。
男子では、1500円を希望が30%、2000円を希望するが50パーセント。
女子では、1500円を希望するが42%でした。
これは、時間給のことではなく、日当のことですよ。
「希望する」ということですから、実際にはもっとそれ以下だったということです。
ここにも、日本社会のかつての時代の姿がしめされています。
この収入をもとめて、雪国の人たちが、相模湾のみかん地帯まで、
冬のみかんの収穫期でしょうが、出稼ぎに来ていたんですね。
そして、その労働によって、広いみかん畑が維持されて、
広いみかん園全体が、はなやいでいたんでしょうね。
今のみかん農家には、とてもそんな手間賃を払えるような余裕などありません。
出稼ぎに来て、結婚して、そのままこちらに落ち着いた人たちも、多々いるそうです。
アンケートの最後に、感想や要望すること、生の声が紹介されていました。
これはマイナス面からみて、その姿の一端ですが。
「6時に家を出るのは早すぎる」「朝食のおかずがない」
「朝5時におきて家じゅうの掃除をするのはつらかった」
「昼休みが5分か10分しかない」「人使いがあらい」
「女の人が運搬をするのは大変だから、男の人を雇ってください」
「暖房が少なく部屋が寒いのでがまん出来ない」「部屋がせまい」
「個室がないのでつらかった。家の人がテレビを見終わらないと寝れない」
「援農者を家のお手伝いさんと間違えている」
「主人が毎日浮かない顔をした。もうすこし笑い顔をみせてほしい」
「命令的に人をうごかす」
「家族の人はもっと協力してほしい。援農者ばかり便りにしないで、子供にも働いてもらいたい」
等々。なかなか厳しかったようですね。
私などは、このアンケートをみい感じました。
昔は農協が今の様に統合されておらず、各地域、地域にあったんですね。
これは、単位農協ごとに集約されたものです。
私などの郷里の岩にも、単位農協があって、そんな片田舎にも出稼ぎ者が来ていたんですね。
その岩の地域でも、3人の人が回答してくれていました。
全国的な地域交流が、こんな田舎の片隅でもあったんですね。
私などの子どもの頃のことで、ちっとも知りませんでしたが。
最後に「今年(次回)の予定」について、
32%の人が「今年も行きたい」、50%が「まだきめてない」でした。
北国のきびしい事情もあるでしょうが、「またきたい」というのはすくわれる声ですね。
1960年代のみかん作業のことです。
1970年代の輸入の自由化と過剰生産で、すべては家族労働に変わりましたけれど。
そして今は、高齢者の夫婦労働がになうことに変わりましたけれど。
みかん栽培は、今も続けられています。