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みかんの木を育てる-四季の変化

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2021年04月20日
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​哲学48 ヘーゲル『大論理学』7 第一章有と注釈1​

これまで、何度も読もうとしては、途中で放棄してきたヘーゲルの『大論理学』ですが。
どうも読み方の問題が、一つの原因としてあったようです。

有名な大著ですから名前に引かれて読んでみたくはなるんですが、
大河小説の様に、全体がひとつづきのまとまりをもつものといった先入観があったようです。
その筋がどこにあり、いったい何を言っているやら、さっぱりつかめなかったんですね。
弁証法にかんしての金言が、ところどころにチラホラと垣間見えるくらいの見方でした。



しばらくぶりに目を通してみたら、その印象がだいぶ違うんです。


一、読み方の問題について。
前回も紹介しましたが、複線の著作になっているんです。
本論と、それに対する注釈との。

第一篇規定性(質)、第一章有は、P77から116まで、全体で40ページあります。
文節に番号をつけてみると、全部で59節あります。
その中身が本論部分と、それへの様々な注釈とに分けられるんです。

本論は、最初に第一篇質の全体についての概観的で1-4節あります。
次いで、第一章有ですが、
      A有         第5節
      B無         第6節
      C成 1有と無との統一 第7節
         2成の二契機  第8、9、10、11節
         3成の止揚   第12、13、14節
全体で59節あるうち、有の本論については全部で10節分だけなんです。
あとは、5つの注釈からなっているんです。

論理学の本論は、きちっと考慮された論理展開がおこなわれています。
それは「ある」ということから始まりだします。有は「ある」、無規定で抽象的なただ「ある」。しかし無というものがある。無があるから有があるのであって、成は有と無との統一なんだと。

このように本論が「ある」というきわめて抽象的な事柄から、必然的な論理展開を考察し始めるわけですが、内的な必然性という限られた展開だけを語っているわけですが、それをまもるとなると、その限られている分だけ説明というか、解説が必要になる。だからおのずからそれに対する注釈が、あれこれと必要になる。片や本論の論理の必然的展開が、片や注釈というそれに対する解説が展開されている。『大論理学』は、こんな二重の構造になっているわけです。

だから、必ずしも、全部が全部理解できなかったとしても問題なし。本論の所に筋があるということで、極端に言えば注釈は後からくわえたものとして飛ばして読んだとしてもかまわないということです。

全体がひとつながりの起承転結になっているんじゃないんです。それがつかめないから、苦しくなってレーニンの哲学ノートに完全に頼ったりした時もありましたが、レーニンはレーニンの弁証法という課題意識でよんでますから、粗削りな選択をしている面もあるんですね。
これが、私なりに、まだ読み始めたばかりですが、読み方について反省させられている点です。それが妥当しているかどうかは、今後の進展の中で確かめられるはずですが。

二、そもそも『大論理学』は、何が問題なのか。
こんなことは、ヘーゲル先生曰く「全体を読む中で明らかになることで、あらかじめいえるのは理解をうながすためのいくつかの観点を提供できるくらいだ。苦しくても、議論の展開についてきなさい」などと言っているんですが。
今回、エンゲルスもそのヒントを与えてくれています。今回気がついたんですが。
『空想から科学へ』の第2章ですが。こんな一節があります。

「(人類の歴史でも、自然の歴史でも)どちらの場合にも、現代の唯物論は本質的に弁証法的であって、他の諸科学の上に立つような哲学をもはや必要としないのである。・・従来のすべての哲学の中でなお独立に存在しつづけるものは、思考とその法則についての学説-形式論理学と弁証法である。そのほかのものはみな、自然と歴史についての実証科学に解消してしまうのである」(国民文庫 P84)

私などは、長らく、この意味していることを理解しかねていたんですが、
ヘーゲルが『大論理学』の「序論」で「V、論理学と教育学との関係など」で述べていることとも、この点での中身が重なっているんですね。

「思考とその法則についての学説-形式論理学と弁証法」といっているのは、この論理学のことじゃないですか。そこには、ものごとに対処していく上でも、大事な効用があることをヘーゲルは指摘しています。言い方をかえれば「行動の指針」になるということですが。

三、どうしてこんな「論理学」などということを、ヘーゲルは問題にするようになったのか。
第一章の注釈1を読んですると、『哲学史』の課題と重なる点が出てきます。パルメニデスとヘラクレイトスに対する批評(別のところではアリストテレスの論理学に対する批評もでてきます)と、ドイツ哲学とくにカントの哲学に対する批評が、批判が展開されています。そんなところにきっかけがあったのかと想像していますが。

まだ第一章有で、始まったばかりですから、経済学の『資本論』では、第一章商品のところですから、全体のことはまだ分からなくて当たり前なんですね。今はがまんして、グダグダと二重の形で展開していることを、それぞれ追跡していくということです。

今回は、ここまでです。






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Last updated  2021年04月20日 13時54分08秒
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