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カテゴリ:本棚で見つけたこの一冊
ヘーゲル『大論理学』30 第三巻・第三篇理念、その2 ヘーゲルの『大論理学』というと、もうそれだけで、はなから「難しい」とのトラウマをもつ人を見かけます。私などの経験からも、その気持ちは分からないわけじゃないんですが。 イ、その先でカントと違ってきます。 このカントとヘーゲルの理念に対する考え方の違いですが、この点を考慮するところに大事なポイントの一つがあると思います。ここには、物事に対する態度の違いがでてきます。真理に接近していく過程にでの主体的姿勢の違いにも関係してくるわけです。これは、日常的に私たちも体験している事柄で、基本姿勢にもかかわる問題でもあるわけです。 まずヘーゲルを書き抜いてます。「理念は・・認識および意欲として、真なるもの及び善なるものの理念である。・・この有限的認識及び行動の過程が、最初は抽象的であった普遍性を総体性となし、これによって最初の普遍性は完全な客観性となる。」(『小論理学』第243節) これに対して、これをレーニンは自己の分かりやすい言葉に置き換えます。 どうですか、ヘーゲルの文章というのは、多くの人がつまづいてしまう、そのわけがよく分かるんじゃないですか。難しいとトラウマになるのも分かるんじゃないですか。しかし同時に、よく注意して読むとその中には確かに大事な中身を含んでいる、レーニンはヘーゲル特有のいいまわしを努力して翻訳し解読してるんですね。この仕方というのはマルクスも『ヘーゲル法哲学の批判』でやっていることなんですね。 それは凡人にはそうそう簡単にできることではないんですが、でも先人が努力した記録が・結果が残されているわけですから、それを生かすようにして学ぶことは、凡人の私などですら可能なわけなんです。なのにどうして、専門の研究者がそうした努力をいかさないのかが、不思議なんですが。これは学者・研究者として知的遺産に対する怠慢だと、私などは勝手に思っているんですが。 「(これらが意味している事柄というのは)認識とは、思惟が客観に不断に、無限に接近していくことである。人間の思想における自然の反映は、死んだ、抽象的な、運動を書いた、矛盾のないものとしてりかいしてはならず、運動の不断の過程、矛盾の発生と矛盾の解決との不断の過程のうちにあるものとして理解しなければならない。」(165) 「現象、現実性のすべての側面の総和とそれからの(相互)諸関係―これらからこそ真理は構成される。もろもろの概念の諸関係(=諸移行=諸矛盾)=論理学の主要な内容、しかもこれらの概念(およびそれらの関係、移行、矛盾)は、客観的世界の反映としてしめされている。事物の弁証法が理念の弁証法を創造するものであり、その逆ではない。」 「ヘーゲルは事物(現象、世界、自然)の弁証法を、概念の弁証法のなかで、天才的に推知した。」 「この警句は、もっと平易に、弁証法という語をつかわないで言いあらわされるべきであったかもしれない。たとえばこんなふうに―ヘーゲルは、すべての概念の変換、相互依存性のうちに、それらの対立の同一性のうちに、諸概念の不断の変換、不断の運動のうちに、事物、自然のまさにそのような関係を天才的に推知した。」 「まさに推知した、それ以上ではない」 さらに、これらの『小論理学』で言えば、第213節、214節、215節の全体を振り返って、 とにかく他人はともあれ、私は行くということです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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「理解する方法」から『大論理学』の概要、更に、現在の問題意識=「愚痴」と。大変大部なレポートでした。お疲れ様です。御教示の「理念が真理だということは、客観が主観的概念に一致すること」というところは、すこぶるヘーゲル的なところなのかなと驚かされました。
(2021年09月12日 21時46分30秒)
渡政(わたまさ)さんへ
今、第二章「認識」を読んでるんですが、 主観が客観を探るのが分析で、客観が中心、これが理論的探求で。 逆に、主観の計画・意図に客観を合わせるのが、労働であり実践だと。 マルクスの『経済学批判』序説の、上向法・下降法、帰納と演繹など、この第二章「認識」で、ヘーゲルが考え方の素材を提供していることを知りました。 学生時代に、こうした議論が学習ができていたら、今ごろこんな発見をするなんてことはなかったはずなんですが。まぁ、気づかずに墓場に入るよりかは、良しとしておきます。あと、認識と絶対的理念です。もう一息です。 (2021年09月12日 22時34分07秒) |