ヘーゲル『大論理学』32 第三巻・三篇理念4 全体図
『大論理学』の学習も32回目、最終篇第三巻・第三篇「理念」に入ってますが、その4度目です。
今、私の近隣では、迷惑をこうむっている人がかなりいます。
当方が、ヘーゲル学習についてしきりに感想・意見を求めているからなんですが。
50年前の学生時代の同窓生にも、20年前の地域の学習サークルの面々にも、この人ならと思う人に、突然にそれへの意見をもとめたりしているんですね。まったくもって迷惑な話なんですが。
もしも立場が逆であれば、「うるせえ! こっちは忙しいんだ」などと対応するかもしれないんですが。ありがたいことに、この藪から棒の求めに対して、なかには意見を寄せてくれる奇特な人たちもいるんですね。こうした応対はじつに大したものだと思うんですよ。
しかし、当たり前ですが、1億2000万人の圧倒的には深い沈黙です、それも当然だとは思うんですが。
さて、この間の3回の第三巻・第三篇「理念」論レポートですが、
その内容を振り返ると、1.私なりにヘーゲルに接近するには、どの様な読み方の工夫をしているかの問題と、2.難渋な大著を攻略するには、大体でもよいから全体図をもつことが大切だとおもうこと、3.レーニンという人は『哲学ノート』で、この『大論理学』をどの様に読み解いていたのか、だいたいこの3点について紹介してきたつもりですが。
今回は、いわば番外編です。私の「理念」論の全体図についての勝手な主観です。
この第三篇「理念」を読んでいく上で、私なりにどの様な全体像を想定しているのか、この問題を紹介させていただきます。自分なりに勝手に描いている「理念」論の絵図です。
これは、『ヘーゲル論理学入門』(有斐閣新書)や『1831年の論理学講義』などを読んで、私などが描いた『大論理学』の概略なんで、本体はまだこれから挑戦するところなんですが。
一、まず、そもそも「理念」とはなんなのか。
『理念』と聞くと、私などがイメージとして描いていたのは、ものごとの理想的な姿といったものだったんですが。まず冒頭でヘーゲルは注意しています。私などに対して釘を刺しているんですね。
まず最初にヘーゲルは、理念というのは、そうしたたんなる主観的な表象ではないんだと。理念は主観と客観の統一であり、実在的なものなんだと。理念は、客観的なものであり、実在的なものなんだと。
私などは、これまであまりこの点に突っ込んで考えたことがなかったものですから、ヘーゲルの言おうしていることが理解しにくいわけです。しかし、ヘーゲルはその点に、まず最初に注意を喚起しているんですね。理念は、たんなる主観的なものじゃなくて、客観性を持っているものだと。
二、ヘーゲルは理念はどこから発生してくるのか、その起源の問題を提起しています。
第三巻「概念論」の、その前の第2篇「客観性」で、ものごとの客観的な関係について、1.機械的関係、2.化学的関係、2.目的的関係が、この三っを分析しています。
ヘーゲルは、理念はこの目的的関係から出て来るといってます。
目的的関係というのは、意図(計画)が、素材や手段を使って、新たなもの(意図したものを)を生み出すということですが、ここには意図(主観的な事柄)が、その結果において実現する。人間の労働過程もその一例でしょうが。
ヘーゲルはこの三要因(意図-手段-新たな結果)が一つのものになっているのが「理念」だというんですね。
それまでは、機械的関係にしても、化学的関係にとしても、、ものごとの客観的な必然的な関係ですよね。目的的関係において、はじめて人間の意図、主観的概念が問題になってくる、ここから主観と客観が統一する認識、理念というものが発生してくると言ってます。
三、ヘーゲルはその「理念」を三つの段階をもつと指摘しています。
すなわち、第一が生命、第二が認識、第三が絶対的理念です。
これが『大論理学』の最終篇の第三巻・第三篇「理念」の内容となっているわけです。
今、主題となっている「認識」ですが。
認識は過程なんだ、と。
その認識には、理論的方法と実践的方法があって、その理論的方法には分析的方法と総合的方法がある、と。この「認識」が、これから私などが学習しようとしているところです。
四、最後の「絶対的理念」ですが。
あれこれの理念。それらの理念の一般な理念、理念の中の理念ということですが。
その一般的な理念が、それが弁証法なんですね。
一般的という意味は、自然、精神(社会)、人間の思考、これが世界の三分野ですから。
ようするに世界のすべてにおいて貫かれている法則性としての弁証法だというんです。
「結論は始めなり」で、この論理学で探究してきた結論的なことは、万事に通じる一般的法則性なんですね。それが理念の理念、「絶対的理念」なんです。
もしも人間がこれとその関係を理解して、意識的に駆使するならば、個々の科学の諸分野での探究方法となることはもちろんですが、その科学的探究よりももっと広く、そもそも人間の基本的な物事に対する対処の仕方において実りあるものにすることができる、そんな世界観的な事柄をヘーゲルは述べているんじゃないかと思います。まぁ、これからあたって、確かめることですが。
五、さらに、もう一つ。ここから先は、ヘーゲルを越えちゃうんですが。
ヘーゲルは客観的観念論者ですから、概念というものが先にあって、この思考の論理的展開が第一義的であって、自然界はその照らし返しでしかすぎないと、ようするに概念(精神)を第一義的な根本と考えているのがヘーゲルです。
これに対して、しかしそれは逆立してるんじゃないか。自然の動きこそが根本的なもので、それを人間の頭脳(精神)がとらえたとの関係、転倒をただす見方を提起したのが、マルクスやエンゲルスの主張した唯物弁証法ですね。考え方の立場は対照的ですが、ものごとの弁証法的な発展をとらえる点では、この両雄ですが、ヘーゲルから学んでいると思います。ヘーゲルの提起を、マルクスは社会発展の唯物史観として、歴史の見方(理論)として確立し、経済学と歴史の批判的検討から『資本論』という具体的な著作として残したんですね。
まぁ、しかしこれは、ヘーゲルの『大論理学』を学ぶという域を越える、新たな歴史観の発見と、一つの個別分野での成果ということで、次のステップですが。
以上が、私などの『大論理学』第三巻・最終篇を、これから学習していく上での、一般的な絵図です。
実際には、ヘーゲルは、カントをはじめとする哲学の歴史を、諸科学の歴史を検討するなど、20年以上のうん蓄を、あの『大論理学』の分かりにくい表現の中で展開してますから、これは当たって見ればすぐにわかりますが、それを追跡するのは、とても至難なことなんです。
しかし、大まかにでもこうしたイメージをもって臨むならば、そのすべては分からないにしても、素人の私などにとっても、ある程度は大事な成果が学びうると思っています。
これは、やはり、人類の貴重な知的遺産だと思っています。
しかしそれが、名前ばかり有名であっても、ちっとも具体的な中身が踏み込まれていない歴史の事態をみるにつけ、これではもったいない。私などでも、少しは光をあててあげたくなるのは、当たり前なことと思っているんですが。それが責任だと思うんですが。
そうしたことで、次回は、第三篇「理念」の第二章「認識」に入ります。