ヘーゲル『大論理学』34 エンゲルスのアドバイス2
前回、エンゲルス(1820-1895)が、28歳のコンラート・シュミット(1863-1932)あてに送った手紙、1891年11月1日付ですが、ヘーゲル学習をアドバイスした手紙を紹介しました。
今回も、この手紙に関連しての学習です。
一、私などは、この手紙が紹介されているのをみかけません、目新しいものとして見たんですが。
1891年といえば、明治24年ですね。
当時の日本では、自由民権運動の54名の壮士が、保安条例により東京から追放するとの命令が出た年です。ヘーゲルの理論的探究どこじゃなくて、民主主義・政治的自由をめぐって国家弾圧が行われていたんですね。その当時には日本では問題になりようがなかった。そこにプロイセン(ドイツ)と日本との大きなギャップをみてとれます。
この種の哲学探究というのも、戦前は弾圧の対象だったんですね。共産党・科学的社会主義者たちのみならず、唯物論研究会の苦難な歩みを見れば、そのことは明らかなんです。学問研究の自由が1945年までは、治安維持法等で取り締まられていたんです。だから、自由に「万機公論にけすべし」というわけにはいかなかったわけです。禁圧による空白の時代があった。
私などが生まれたのは1950年ですが、もちろんその時には、そうした野蛮な体制は制度としては日本国憲法の下でなくなっていましたが、その後遺症は国民意識には刻まれていた。制度が変わったとしても、国民の意識が一気に民主主義に変わるわけではないんですね。それは研究の空白としてあったんですね。
そうした影響・問題は、時々様々な形で現れてくるんですが、「憲法を変えて戦前にもどせ、ないし9条を外して戦える軍隊にせよ」との流れもそうですし、今さかんに総裁選で共通して言い合ってますよね。また、今回の日本学術会議会員候補者の任命拒否ということも、「それをただそうとしない」というのも、一部の政治家の頭には、今の時代ということを学ぼうとせず、戦前の認識を無反省にもその尻尾を引きづっているわけですね。そんなことをまかりとおしたら、戦後を生きてきた者の恥ですね。こうした反動とどのように戦えるか、現在の私たちと民主主義は、決定的に、妥協なく問われているわけです。
それはともかくとして、この書簡のはいった『ME全集』第38巻は1975年に刊行されてますから、それ以降ならだれでもみれるし、また多くの研究者は見ていると思うんですよ。しかし、私個人な狭さかもしれませんが、この手紙を知らなかったというのは。だけど、これはどうしたことでしょうか。
私などは、これも後遺症の一つの現れとみているんですが。
二、この手紙に、「ヴォルフ」(1679-1754)という人の名前が出てきます。
エンゲルスによる紹介ですが、
『小論理学』の「序論」では、「第26節等に、まずヴォルフによるライプニッツ注釈の批判、次いで英・仏の経験論批判が第37節等、ついでカント批判が第40節以下に・・」と。
私もこの人は知らなかったんです。それで『小論理学』にあたってみたんです。
すると、そこでヘーゲルはこんなことを言ってました。
『(ヴォルフなどの)、カント以前にドイツで見られたような古い形而上学は、哲学の歴史にかんしてのみ古いものであるにすぎず、それ自身としては常に存在しており、それは理性的対象の単に悟性的な考察である。従って、この形而上学の方法および主要内容を立ち入って考察するということは、同時により切実な意義をもっている。」(第27節 P135)
この「(今日でも)より切実な意義をもっている」と述べているヘーゲルですが、その課題は、その後どのようになっているかということですが、日本では「空白の時代」あったことは明らかで、戦後72年の歳月が過ぎてきたわけですが、それがこの間にどの様にクリアーされているか、そのことが問われているわけですね。
それはともかくとして、ここでヘーゲルが言っているのは、『小論理学』の「客観性に対する三つの態度」をさしているんです。
そこでは、第一がこのヴォルフなどの形而上学、第二がイギリス経験論とカントの批判哲学、第三がヤコービなどの直接知です。
ヘーゲルは哲学史の流れから、これら3つのグループを批判することで自らの弁証法哲学の見地を明らかにしようとしているんですね。哲学の批判なわけです。
三、では、その中の「ヴォルフなどの古い形而上学」に対して、ヘーゲルはどの様な論点を提起しているか。
ヘーゲルは、ヴォルフの哲学は、ドイツ人の哲学的教養を高めたことの業績を評価しつつも、
「悟性の哲学」からぬけれなかったと、次の三点で批判しています。
1、第28節「一面性」な思惟規定を、それだけで意義をもち真実在とみた。
2、第30節「全体を表象から取りあげ、それらをすでに出来上がった、与えられたものとして」見たこと。
3、第32節ドクマティズム(一面観)となり、二つの対立した主張のうち、一つが真理で他が誤謬でなければならないと考えたこと。
ヘーゲルは、この3点のそれぞれの考え方は、根本的には悟性的な考え方にとらわれていたこと、それから抜け出せなかったこと、こうした点を批判しています。
この3点ですが、エンゲルスは『空想から科学へ』を読んだことのある方は、その第二章で、形而上学的考え方と弁証法的考え方を対比している部分を思い出すんじゃないでしょうか。
その当時、1870年代に、エンゲルスは自然科学の最新の材料を収集するとともに、ヘーゲルの『大論理学』『小論理学』を学びかえしているわけです。そのことは『自然の弁証法』に残されているんですが。
この第2章の著述は、そして『フォイエルバッハ論』は、このヘーゲル学習の基礎作業があったからこそ、その明確な見解が表明出来たんだということが見て取れるとおもいます。
シュミットへの手紙も、こうした流れのなかにあるわけです。
四、もう一度、くり返しになりますが、『小論理学』の第27節のヘーゲルの指摘ですが、
ここで言っていることというのは、重要だと思いませんか。
「ヴォルフなどの)、カント以前にドイツで見られたような古い形而上学は、哲学の歴史にかんしてのみ古いものであるにすぎず、それ自身としては常に存在しており、それは理性的対象の単に悟性的な考察である。従って、この形而上学の方法および主要内容を立ち入って考察するということは、同時により切実な意義をもっている。」
ようするに、意識的に弁証法を学ぶようにしないと、それ以前の思考の習慣が、「あれか、これか」の悟性的な認識がもつ矛盾ですが、一面的思考ということですが、それらから抜け出すことは出来ないんだ、その意味で「切実な意義をもっている」といってるんです。
これはたとえは良くないですが、「安倍なき安倍政治」ということ同じことなんです。「ヴォルフなきヴォルフ思考」=弁証法をおろそかにすると自然と悟性思考にふりまわされるよと、1830年代にヘーゲルが指摘しているわけです。
まあ、もちろん学び方にはいろいろあると思うんですが、それから190年がたちますが、この間にはマルクスやエンゲルス、レーニンなどの努力の足跡はありますが、そしてその人たちもくり返し勧告していたわけですが。
はたしてその後をすすみつつある私たちは、どれだけこの宿題に真剣に向き合えているのか、このことが問われているんじゃないでしょうか。課題は歴然として提起されているんです。
私たちには、この宿題を果たしていくことの、大きな歴史な責任があるわけです。
大人たちは子どもたちには『勉強しろ』と口を酸っぱく言いますが、この歴史的課題に大人たちはどうか。私たち自身の努力が問われているわけです。
五、さて、『大論理学』の学習ですが。
第三巻・第三篇「理念」・第二章「認識」まで来ているわけですが、
この第二章「認識」ということですが。
今回みたように、『小論理学』「序論」の「客観性に対する三つの態度」と密接に関係していました。
ヘーゲルは『哲学史』を並行して講義しているわけですが、それを三っの態度を批判するという形でまとめているんですね。そしてその批判の中から論理学の見解がつくり出されたんだと言っているわけです。
どうして、「序論」にこんな論文を配置しているのか、そのわけが見えてくるかと思います。
さて、『大論理学』ですが、
これまで大分端折ってきましたが、終わりまでたどり着くには、仕方がなかったんですが、
とにかくあと二つ、第二章「認識」と最終章「絶対的理念」です、もうすこしです。