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2021年10月03日
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​ヘーゲル『大論理学』36第三巻三篇・第二章「認識」​

「哲学の目的は、昔から今にいたるまで、理念と思惟によって認識すること以外にはありません」(『小論理学』岩波文庫 第213節補遺 P211 )


いったい認識とはなんなのか? 認識はどのようになされているのか?

ヘーゲルの『論理学』も最終に近づいていますが、第三巻「概念論」・第三篇「理念」、その第二章は「認識」ですが、これがヘーゲルが『論理学』の終わり近くで問い、検討している根本的なテーマです。

チョット聞くと、私などは「そんなことは常識的で、あえて問うこともないんじゃないか」と、通過している問題なんですが。その当たり前そうなことをあえて吟味し、人間社会にたたき台といったものを提供したのが、ヘーゲルの大きな功績なんですね。




一、問題の輪郭を探るために、この第二章「認識」のあたりからですが、「認識とは何か」を探っていく上で、ヘーゲルが留意をうながしている点について、いくつかピックアップしてみました。

1、理念とは、一般に個々人の表象の意味(主観的な意味)でつかわれているけど、カントが指摘したように「理念」と「表象」とは違う。理念とはたんなる主観的なものではなく、概念(客観的な真理)であり、主観的概念と客観性との統一なんだ。(『大論理学』第三篇「理念」 P257、P262)

2、真理というと、人は或るものがどういう風にあるかを知ることだと思っている。しかしそれでは単に意識との関係における真理にすぎず、形式的な真理にすぎない。(たんに認定といった主観的な事柄ではない)。より深い意味での真理は、主観的概念と客観性とが同一なこと(一致すること)なのである。(『小論理学』第213節補遺 岩波文庫下 P210)

3、われわれが概念的な認識をもたず、ただ単純な固定的な表象と名前を知るにとどまかぎり、われわれは何らかのものについても、ましてその概念そのものについて、いかなる概念も持たないということになる。(『大論理学』P290)

4、理念というのは、(結果ではなくて)本質的に過程である。(『小論理学』第215節)

「認識」というと、当たり前のことような感じがしますが、ヘーゲルはくりかえし客観性をもつことと、悟性的観念にはおさまらない弁証法的な過程であることを強調しています。

二、認識という点でのこうした強調点ですが、
これは、『小論理学』「序論」の「客観性に対する思想の三っの態度」の小論がもっている意味が、あらためて明らかになるんじゃないでしょうか。


1、カント以前のヴォルフなどの形而上学。思考により真理を捕えれるとの素朴な態度と形而上学的(悟性的思考)の特徴に対する批判。
2、イギリス経験論と批判哲学の、思考と存在との対立、客観的な真理を認識する思考への懐疑論。
3、ヤコービやシェリングなどの直接知。認識の過程を無視して、結論的な直言的をふりまわす傾向。

『小論理学』の序論も、こうしてみると重要なものです。ヘーゲルはこれらの哲学の歴史的な批判にたって、自らの弁証法的哲学を展開していたんですね。いわば哲学の歴史的な流れにたいする批判です。
別にヘーゲルは『哲学史講義』(河出書房新社)を残していますが、第三部「近代の哲学」で個々の哲学者たちの見解を紹介してくれています。
それだけの研究、背景的な努力があってのこの小論なんですね。

これは、たんに過去の歴史知識を学ぶといったことではないと思うんですよ。
これは現代人にいたるまで、弁証法を真剣に学び理解しするようにしないと、生きた事態に対する対応において、混迷をきたすよというヘーゲルのアドバイスなんですね。
現代でも、これらの問題は、引き続き生きて直面していることがらなんですね。

あの忙しい中で、レーニンがヘーゲルの著作を学習したのは、そうした意味があるんじゃないかと、私などは勝手に推測しています。


三、この学習が必要だとの着想は誰でも浮かぶと思うんですが、それは実際には簡単じゃないですよ。
ヘーゲルの著作というのは、文章というのは、どれも難解ですから、それを理解するのは、まして批判しようとするには、それなりの真剣な努力が必要なんですね。
一般には、教科書的な説明でお茶を濁す人を目にするわけですが、それで納得している人たち人は、それはそれでいいんですが。しかし、それでは本当の批判にならない。それが、1840年代から今日までの歴史的な宿題じゃないですか。マルクスやエンゲルス、レーニンなどは、さらに新たな段階をひらいたわけですが。それを理解する基礎となる学習であり、宿題なんですね。


ましてや、日本の場合は、1945年までは治安維持法という野蛮な思想弾圧のもとに置かれていたでしょう。ヘーゲルやマルクスを自由に研究したり、討議したりすることが取り締まられてたんですから。それが出来るようになったのは戦後のことなんですね。戦前・戦後、はたしてどれだれ前進したか、その概観を知ることすら、私などには手探りの事態です。


といったわけで、今回は、そうした問題があることを確認するくらいで、本当に宿題を果たしていくには私などは力不足なんですが。
しかし、たとえ浅学ではあっても、それでも出来る限りの努力をしようというのが、この学習発信なんですが。

四、この第三巻・第三篇・第二章「認識」ですが。
ヘーゲルは、このあと理論的探求と実践的探求、分析的探求と総合的探求の、この二つの認識態度が提起しています。これはこれで、大テーマです。

さらにそれは、その次の段階として、マルクスの『経済学・哲学手稿』の「ヘーゲル哲学批判」や『経済学批判』の「序説」などにつながっていく問題となるんですが。
しかし、それは課題として今は確認しておくだけにして、後日の宿題としておくこととして。


今は、まず『大論理学』を、とにかく踏破することです。
これまでも、途中を大分端折りに端折ってきましたが、それも仕方ありません。
なんとか、11月の総選挙の前までに、大体でもこのヘーゲルの『論理学』学習をクリアーしようというわけですから。

さて、次回ですが、いよいよ最終章・第三章「絶対的理念」にすすみます。







Last updated  2021年10月03日 19時50分23秒
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