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カテゴリ:本棚で見つけたこの一冊
レーニンの『大論理学』学習への推測 当方は、ヘーゲルの『大論理学』を、今年の3月9日から学習してきました。 一、ヘーゲルの『大論理学』は、難解な本として有名なんですが。 そうした中で、それを読み進めるうえで参考になっている一冊が、レーニンの『哲学ノート』なんです。
私などには、それが難解なヘーゲルの著作を読み解いていく上で、参考になったんですが。しかし当然ながら、「いったいなぜ、レーニンは『大論理学』をはじめヘーゲルの著作をよんだのか?」、この疑問が生じてきます。 「なぜレーニンは、そうした複雑で困難な状況下でヘーゲルを学習したのか?」当然の疑問ですよね。 いったいどのような思いで、レーニンは『哲学ノート』にそれが残されているわけですが、ヘーゲルの『論理学』を、本質論を、概念論を、「認識」や「絶対的理念」を読んでいたんでしょうか? それは、この10月6日(水)でしたが、ユーチューブで送られてきた共産党志位委員長の総選挙にあたって訴えた報告に関連しているんです。 現象からしたら、一人の一介の亡命者ですよ。無にも近い存在だったはずです。ところが、戦争路線を転換させるには、今は無であったとしてもこの政治的な立場しかない、そうした確信を持っていたとおもいます。 私などの、まったくの完全な推測ごとなんですが。 「本質は現象する。帝国主義戦争は終わらざるをえない、しかしどんな形で終わるのか、それはわからない。たとえ今は戦争が燃え盛る火事のようなものであったとしても、どんなに想定しうることと真逆な仮象をもっていたにせよ。戦争反対勢力は徹底して弾圧されていたんですから。それがこれまで様々な角度から検討してきたように、戦争路線は転換しなければならない。そこには社会的変革をふくむ政権交代の可能性がふくまれている。そうした可能性が潜在的にふくまれている。もしもそうした見通しが客観的な真理であるなら、必ず現象して現実に現れることになる。その際、今は主体的には党の組織状況が、戦争と弾圧により、どんなに心もとない状況であったとしても、事物の客観的行程は必ず展開する。そうだとしたら、その間近に迫りつつある政治路線の変更(戦争政策から、国民の悲惨さを救済する平和政策への転換)のもつ政治闘争、社会的変革の可能性をなるべく全面的に展開をみさだめるようにして、それにたいして政治的に組織的にできうる限りそなえなければにらない」 まさに、ここにヘーゲルの弁証法を学ぶ必要性が、動機が、あったんじゃないでしょうか。 ヘーゲルは第二巻の本質論では、「本質は必ず現象する」、「現実性は、理性の合理的な諸条件が整えは、具体的現実になる」などの客観的な行程をといています。それは勝手な主観的な主張ではないんです。論理学の弁証法、必然的な論理的・自然的な展開というものを、客観的なものとして、それを主観的概念がとらえうるものとして展開してといているんですから。 そんな状態だと、それを教科書風の公式論ですますとか、何でも事柄を細断するような型紙のように扱うとか、万能の打ち出の小づちのような知らないことまで知ったかぶりをするようになる、スターリンや毛沢東のような存在も出てくるわけです。
中央政界が、政治的転換の可能性を、政権交代の可能性をもっている。国民的な政治転換の可能性をもっていて、それが10月31日の総選挙で決めることができる。 だけど、かつて歴史のページが音もなく開いたように、もちろん努力次第ですが、10月31日にはそうした可能性が、今の日本には含まれているというんですね。誰かが私見として言ってるんじゃなくて、社会の客観的な可能性がしめしているということですね。志位さんが提起したのはそうしたことですね。 どんなにささやかではあっても、その第一歩の踏み出しが、今や日本の岐路の選択につながっているということですね。「人には人の乳酸菌」じゃないけれど、それぞれの置かれている立場で、どれだけ真摯にこの歴史課題と向き合えれるか、そこに日本の未来がかかっているということですね。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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最終章の獅子吼を拝見する感があります。(獅子吼とは、仏陀の説法を、獅子が吼(ホ)えて百獣を恐れさせる威力に例える言葉で、真理や正道を説いて発揚する意味です。「広辞苑」)
真理は、「合理的な諸条件が整えば」現象化する。真にその通りだと思います。抽象的な論述の学びと具体的な現実との関連を、現下の状況の中に認識する。すこぶる重要です。 「合理的諸条件」は、それが社会・歴史的な課題である場合は、それを構成し担ってい私達の行為=実践ということになるのでしょうか?! (2021年10月09日 21時50分35秒)
渡政(わたまさ)さんへ
この学習は、渡政君の反応があったればこそ開拓できたんですよ。砂漠に水を撒いてるだけでは、どこに確かな地盤があるのか、もやもやした疑心暗鬼になるじゃないですか。 MEL以外にヘーゲルにはこうした中身が、問題はあっても宝があるよと提起し、真剣に向き合った人はいないじゃないですか。学者中の学者が、ほとんど書斎と教室の世界だけにいた人が、カントもそうですが、哲学史と自己とに向き合って、こんな宝を見つけ出したなんて。やはりフランス革命とナポレオン、そして遅れていたドイツの中にあって民主主義的な力がこんな書斎の中にも起きていたということですね。 しかし、それが今日に至るも科学的社会主義とする人たちでも、ヘーゲルがおざなりにされたままでいるというのは、なんともったいないことか。まだまだ、日本社会も下からのコミニュケーションが弱い。絶対主義が転じて「自由と民主主義」の看板が掲げられたわけですが、そのなかで特に政治を引き継いでいる人たちの部分にそれが弱いということです。それにくっつく若者を培養してきたんですから。まだ戦前の萎縮の尾を引きづっていて、それを見据えて克服するというのは今日の課題なんですね。「ジェンダー」も、私などは今ごろになって、『なるほど、そういうことか』の認識を新たにしているくらいですから。 さて、最後の絶対的理念です。まだ、『大論理学』自体を読まなければなりませんから、もうひと山あるわけです。 (2021年10月10日 06時57分30秒)
渡政(わたまさ)さんへ
それと「ジェンダー」という言葉も、私などはつい最近知った次第で、もはや古い人間になっているわけですが。 「男女差別の解消、平等化」くらいは、理念としては頭の片隅にあったんですが。どこまでが妥当で、どこからは逸脱なのか、探究の課題ですね。無条件で点まで持ち上げる気にはならないんですが。 しかし、日本の近現代に、家父長制の家族制度の習慣がもちこまれ、それによって多くの苦しみがあったし、あるのは、これもまた事実なんで。おそらくその声の9割方は応援しなければならないとは思っているんですが。平等ということへの段階的過程として、今現在の問題をリアルに直視していくことが大切だと思っています。 無条件ですべてを賛成というわけには、私などはいかないと思うんですね。自由とは必然性あってのことですから、無規律とはちがうし、どこで線がひかれるかは、すぐには決められないんですね。今の具体的な問題を具体知己に一つ一つ解決していく中にしか未来は開けない。一歩一歩すすんでいくしかないという、そうした問題意識をもって注目しているんですが。 (2021年10月10日 11時30分45秒)
はなたちばな3385さんへ
いきなり「ジェンダー」ですか! 私もテーマとして調べたことはないので、意見は差し控えるべきですが。どうも、genderとは社会的・文化的性差を意味するらしいこと。又、その不平等の解消を目指す取り組みのことらしい。程度です。とするならば「婦人論」。但し、性差の解消一般として、没歴史的=社会的に論じられ「解決」が図られていく限り、それは資本の下への従属の強化にしか結果しないと考えます。「家事労働からの解放」も「女性の経済的自立」も、家族の中で最も弱い立場の子供達に皺寄せされている今の「家族」の姿を見なければならないと思います。 (2021年10月11日 16時25分22秒) |