ヘーゲル『大論理学』38 最終章「絶対的理念」
今年の3月9日にはじめたヘーゲルの『大論理学』ですが、
いよいよ第三巻・第三篇「理念」の第三章「絶対的理念」です。
1000ページをこえるヘーゲルの『大論理学』ですが、その最終章です。
一、はじめに、昨日・10月14日に、岸田内閣は衆議院を解散しました。
10月19日公示し、31日投・開票で、二週間余の期間の総選挙が事実上始まりだした。
最初の問題は、総選挙と「絶対的理念」ですが、私などはそこには重なることがらがあると思うんです。
最初に、その問題からです。
臨時国会の最終盤では、自民党と公明党の政権与党は、われわれは勝つんだから、あれこれの議論などせずに、はやく解散・選挙すべし。これまでの政権政治の支持を訴えて総選挙に臨みだしている。
他方の野党の側ですが。四野党の側は共通政策を掲げて、これまでの政治からの転換、政権交代を訴えて総選挙に臨んでいる。
この二つがぶつかり合っているわけです。
国民の1億2000万人が、どの様にそれに対する意志をしめすか、評価をくだすか、この2週間余の総選挙で問われているわけです。
ようするに、二つのグループが、「我こそは国民の声だ、代表なんだ」と、国民がどちらを支持するか、この点をめぐって、あれこれの論戦をたたかわせていくわけです。
そのことは、ヘーゲルは論理学で「絶対的理念は、主観的理念と客観的理念の統一(一致)だ」と言ってますが。それぞれの政治グループは「我こそ国民と一致してるんだ」として総選挙に臨んでいるわけですが、二つの共闘のグループが競うわけですから、その場合、相対的に競い合う二つの勢力の中から、一つの選挙の結果(勝利者)が出てくるわけです。いわばそれが、「絶対的」なものというわけです。
しかし、選挙の結果というのは、歴史的な時間的過程の中にあるものですから、一定の流れのなかで行われるものですから、「絶対的」というわけではありませんが。
ちなみに、戦前を引き継いだ戦後第一回目の総選挙(1946.4.10)では、保守グループ336議席(72%)に対して野党グループ102議席(21%)でした。それから20余年後の1969年(第32回)の総選挙では、保守グループが303議席(62%)に対して、当時の野党の社会・公明・民社は183議席で37%でした。その時、共産党は14議席でした。今の小選挙区制と違って中選挙区制度の下でしたが。
ですから「絶対的」というのは、あくまでその時代の流れのなかで、時々においての「絶対的」ということですが。
さて、ヘーゲルがここで探究しようとしている「絶対的理念」ですが、それはどの様なかたちで主観的理念が客観的理念と一致するのか、またどの様にして理論的理念と実践的理念とは一致するのかということですから、それは「思考と存在との一致の問題」です。
私などは、ここには総選挙の問題と重なる面があると思っているんですが。論理学の探究と政治(選挙)的な結果とは、多分に重なる(似ている)面があるんじゃないかと思っています。
まぁ、選挙前に終わらせようと思っていた『大論理学』の学習でしたが。解散・総選挙が、いま現実に重なっちゃったんですね。これから20余日後の10月31日に総選挙の投票・開票がある。そんなドタバタの中での、へーゲル『大論理学』の最終章となる「絶対的理念」章の学習となりました。しかし、そんなタイミングだからこそ、これまで気づかずにいた事柄が見えてくることもあると感じているんですが。
(前回の、「レーニンがなぜ渦中の中で『大論理学』を学習したのか、これもその一つでした)
二、さて本題の「絶対的理念」ですが。
ヘーゲルの『大論理学』の最終章の「絶対的理念」です。
ヘーゲルは「論理学」でこれまで有だ、本質だ、概念だなんどと、グダグダ、グダグダと、微に入り細に入り論理的に展開してしきましたが、いよいよその結論です。
ア、『大論理学』では、P356-385までの30ページ分です。
イ、『小論理学』では、P218-246までの9ページ分、第236節から244節までの9節分。
ウ、『論理学講義』では、P246-251までの6ページ分です。
私などに見るのに、ヘーゲルはこの最終章ですが、それぞれの著作と講義において、同じ中身ですが、それを3つの部分の形で説いています。
それは、
1つ、そもそも「絶対的理念」とはなんなのか?
2つ、「絶対的理念とは、その内容は弁証法であること」。ヘーゲルは、ここで弁証法そのものについて、それを正面から解明しています。
3つ目は、この「絶対的理念」すなわち弁証法の解明が意味していることについてです。
私ごときが、この大問題を解説しようなんてことは、荷が重くて、さらさら考えてはいません。
これを一つの意見として、それぞの人が額に汗するしかないんです。焼き鳥の様に口を開けて待っているようでは、もっともらしい偽物がつかまされるのが関の山です。やはり努力が必要で、その努力に見合った物しか、人は手にすることは出来ないんですね。
三、そうはいっても、私なりの感じていることなんですが。
これは、選挙の期日、日程などの問題とは別にして、「終わりは始めなり」じゃないですが、ヘーゲルの『論理学』は、今に生きている精神をもっと引き出さねばならないと思っているんですが。マルクス・エンゲルス、レーニンを除いて、その後の人たちは、ここに一つの宿題をもっていると思うんです。怠けていては、先人の苦労が報われませんから。
その点では、以下は私などの目下の暫定的な感想的なことがらです。
1、「絶対的理念とは何か」、ここには客観性に対する人間の認識との統一しうること、努力により一致することが確信をもって述べられています。カントやヒュームが、近代の批判的な良識からして首をかしげていたことに対して、その弱さをきっぱりと批判して、それを乗り越えていく思想を、ヘーゲルはここで提起しています。
それは、一で紹介したように、今日の私たちとの関連でも、すぐれて実践的で現実的なもので、科学・人間の英知を学び吸収して、それを生かしていく(実現していく)というということ。
すでに古代ギリシャのアリストテレスが、「思惟の中にある思惟」と述べていたことをヘーゲルは発見して、それは諸科学のなかに共通してある弁証法の絶対的理念なんだということを、意識的に解きほごしたところにあります。古代のアリストテレスもすごいけれど、さらにそれを見つけ出したヘーゲルの努力・学識も尋常なものではありません。
2、「思惟の思惟としての弁証法とはどのようなものか」、弁証法というものを解明したのはヘーゲルが歴史上で最初です。これを主題として正面から論じているのが、この「絶対的理念」の章の第二の部分です。端初(始元)-進展-対立物の統一、その中身が展開されてます。またこれを古代ギリシァの哲学者たちにさかのぼって探っています。
この弁証法は、諸科学の中で様々な形で共通している形式だと指摘しています。
前回紹介したレーニンの『哲学ノート』ですが、レーニンが弁証法を学ぶ上で、ヘーゲルの『大論理学』のこの箇所を如何に重視していたか、その記録がのこされています。
こうした成果と努力は、現代に生きる人たちに残された宝だし、私たちにとってどんなに苦労したとしても、やはり学びがいのあることですし、今に生かすべきことがらじゃないでしょうか。
3、論理学の最後の所でヘーゲルは、論理学(弁証法)-自然-精神の世界観を提起しています。
「全一的な」世界観を展開しています。
ヘーゲルは、論理学(概念の弁証法)をとらえ、それが自然に外化し、精神がそれをとらえかえすという関係を、体系ということを提起しています。これは素晴らしい洞察であり、成果だと思うんですよ。
しかし、この体系はヘーゲルにとって、概念の弁証法が主導していて、人間の精神(主観的概念)の域を越えて、もっと大きな神様のような概念の弁証法が人間をも自由にする実体のようにとらえているようなことをもって、それを結論として、これまでの論理学の展開の最後のしめくくりとして、おわっています。
最期は番外編です。
ですから、そこには自ずからエンゲルスの『フォイエルバッハ論』が提起している宿題があるんですね。
「全一」は全一としても、それはどのような関係にあるのか。
1840年代のマルクスですが、『経済学・哲学手稿』において、このヘーゲルの弁証法の意義を認めつつ、ヘーゲルの概念弁証法の転倒を正して、唯物的な弁証法-この新たな世界観をつくろうとする努力に引き継がれるんですね。ヘーゲルが1831年にコレラで死去してから10年くらい後のことです。
私なども、ヘーゲルの難解な文章には、何度も挫折してきたんですが、マルクスはそこで「ヘーゲル哲学の批判」をしています。そこでマルクスはヘーゲル哲学と格闘しています。この努力があったからこそ、私なども今日に多少となりヘーゲルを、その問題点についても、ひも解けるようになってきたんですが。
ヘーゲルの業績、論理学-自然-精神の全一的なものとして、弁証法をとらえたことですが、それを哲学史、歴史哲学、法の哲学と、多岐な分野を探ったヘーゲルですが。ヘーゲルはベルリン大学の総長をも経験した教授ですから、学園の窓から世界の動きや諸科学の成果を思いめぐらしていたんですね。絶対的理念(弁証法)を見出したヘーゲルですが、これはこれで画期的な業績なんです。マルクスが心理学の様にその内面を読み取っているんですが、そのヘーゲルが、その抽象性には飽き足らなくて、「衝動にはしる」との表現でぼやいているんですね。自然の多様多彩な形への関心、あこがれを表明しているんです。そのボヤキが含まれているんです。当然ですが、あのいかめしいヘーゲルにしてはじつに人間的ですね。
とにかくそれは、その後の人たちに、弁証法の逆立ちを正して、この基本的な方法をもって、それ自身を学び、それを人が直面している諸科学の各分野に、ないし具体的な問題に対して、その方法を生かしてどのように臨んでいくのか。こんなことをヘーゲルは「論理学」等をとおして、私たちに提起しているんですね。マルクスにおいては、唯物弁証法を仕上げ、歴史観としての唯物論的歴史観の発見や、資本主義社会の発展の仕方を探ぐる『資本論』など成果も、そうした宿題に対してのマルクスなりの答えだったわけです。
現代人の一人ひとりに、今日の課題として提起されている事柄なんですね。
以上で、このヘーゲル『大論理学』の学習を、長い旅を、一区切りとします。
途中で、多くのことがらを端折ってはきましたが、
3月9日からはじめたヘーゲル『大論理学』の学習ですが、なんとか、途中で放棄することなく、最終章まで来れたことは、さいわいです。
直接的なコメントを寄せていただいた方に感謝です。ボヤーッとしていたこと、そのやりとりで明確になるんですね。同時に、今時に何故ヘーゲルなのか、この難解なブログ発信でしたから、ダルマのようになるのは当たり前なんですが。それにもかかわらず、その発信の都度に閲覧数が上がったんですね。これは勝手に声なき関心者がいるものと勝手に解釈して、勝手に間接的な激励として受け取らせていただきました。おかげで、とりあえずゴールまで来れました。
こんな厄介なテーマにおつきあいしていただけた方々に感謝です。
ありがとうございました。