『経済学哲学手稿』6 再びヘーゲル弁証法について
12月というのは、みかん農家にとって火事場のような忙しさです。その中で、どれだけマルクスのヘーゲル弁証法批判に迫れるか。問題は歴然として提起されているんですが。
今回の対象は、前回と同じです。
マルクスはこれからヘーゲル哲学(弁証法)批判にすすむわけですが、『精神現象学』の「絶対知」の部分の具体的な検討に入っていくわけですが、今学習している箇所は、その前にある総論的部分ですが、前回と同様の箇所です。
マルクスの総論ですが、『国民文庫』版では、P213から217の、5ページ分が範囲です。
問題は三つです。
一、ヘーゲルにおける二重の誤り
二、ヘーゲル弁証法の終極成果について
三、その一面性と限界について
このうち一、については第四回で紹介しました。
今回も前回同様に、二と三についてです。
二、ヘーゲル弁証法の終極成果について
ここでマルクスはヘーゲル弁証法にたいす積極的評価をしています。
これがヘーゲルの死後、初めて正面から弁証法にたいして光が当てられた歴史的な文章じゃないでしょうか。
その「弁証法とはなにか」、その核心は「運動させ産出する原理としての否定性の弁証法」だということ。これがマルクスの弁証法の本質規定です。
ただこの規定だけでは中身がわかりません。マルクスは次にその中身を具体的に紹介しています。
弁証法というと、一般にその説明として「対立物の闘争」「量から質への転化」「否定の否定」-この三っの法則として解説される場合が多いでしよう。それも大事な本質的な点だとは思います。実際にヘーゲルも『論理学』でそうした点をふくむことを述べているんですが。しかしこの三つをもって弁証法の総括的説明が尽くされたとしてはならないと思うんですね。その説明で弁証法をわかったような気になってはならないと思うんですね。実際に弁証法の中身をつかむことが大切だと思うんです。
マルクスは、ここで弁証法の中身について、ヘーゲルの『現象学』や『論理学』から、いろいろな点を紹介しています。それはヘーゲルから弁証法というものをつかもうとする努力だと思うんですよ。これが弁証法の要素を明らかにしようとしていると思うんです。
なかなかこうした地道な努力を明らかにしている研究者というのは少ないんですよ。ヘーゲルをたてまつり、解釈しようとする人というのは、大勢いるんですが。
さて、その弁証法の中身ですが、
「第一に、ヘーゲルは人間がものごとの産出を、ただ結果的なものだけではなくて、一つの産出する過程としてとらえていること。第二に、人が産出して対象化したものというのは、同時にその対象性を人がとりもどすということでもある。外化するということは、同時に外化の止揚(対象性のはく奪)でもあるとらえていること、このことはヘーゲルが労働の本質をとらえいる。・・・。」
こんな書き出しで、弁証法について、いろいろその内容説明をしています。
ここでのマルクスの弁証法の説明ですが、基本的にヘーゲルの偉業として積極的に評価していることは明らかです。いささかも懐疑的な曇りもありません。ヘーゲルが近代で初めて弁証法に光をあてたんです。それが業績であり、偉業なんです。あの分かりにくい文章のなかでですが。
それともう一つ、日本の研究者によるものですが、私などにも参考になる指摘がありました。
『マルクス 経済学・哲学草稿』(有斐閣新書 1980年刊)のなかで細谷昂氏の紹介ですが。
マルクスはこの「ヘーゲル弁証法および哲学一般の批判」は、この文章の幾つか前に「私的所有と共産主義」という文章がありますが、これにつづいて書かれたものだというんです。この前に書かれた「私的所有と共産主義」を読んでおくと、この箇所の理解がしやすくなるとの指摘(P176)です。
実際のマルクスの草稿原文の全体を見てのアドバイスのようです。
確かに私などが読んでみると、論文の全体の流れから、前の「私的所有と共産主義」において展開している事柄があり、この対象としている部分では結論的に簡単にふれているだけといった、関係もみえてきます。それで理解しにくくなっている面もあるんですね。ここだけで理解しようとすると無理があるということです。
三、ヘーゲルの一面性と限界について
今度はヘーゲル弁証法の肯定的な成果という面から、そこにある問題点にうつります。
ところで、ここでのマルクスのヘーゲル弁証法、哲学への問題点の指摘ですが、これはこの後から展開される分析への総論的な案内でしかありません。あくまで、これにつづく具体的に検討していく中であきらかにされるわけで、それに対する予備知識として紹介しているにすぎません。その中身は、これから後の批判的検討の全体をとおして明確にされるということだと思います。
だから、この場所(11行)での指摘からだけで、それらの内容を理解しなければ・・・などと思ってはならないと思います。そうなるとその人流の解釈論におちいりがちになります。
あくまで、この後の探究に対するアドバイス(示唆)をしているものだ、とマルクスは言っています。
では、どの様な点を指摘しているか。
1、ヘーゲルは労働を人間の本質としてとらえているけれど、肯定的な面だけを見て否定的側面を見ない。
2、労働は外化の内部で対自的になることだけれれど、ヘーゲルは抽象的精神的労働だけしかみない。哲学としてしか、思考の外化しかみない。
3、ヘーゲルは思考を労働としてとらえるから、先行する他の哲学したことを、(他の哲学者たちは自然と人間生活の契機を自己意識によるものと考えるが)、ヘーゲルは行為から意識を知る。
以上です。
今は分からない点もありますが、それはここでは、これにつづく検討の結果として明確になることがらだとしておくことにして、紹介するだけにとどめます。
今回はここまでです。
本文は、いたって短いものなんですが、グダグダと長いものなってしまいました。
しかし、ヘーゲルの弁証法を積極的に評価しつつ、その問題点、つくりかえにあたろうとしていることはうかがえると思います。26歳のマルクスの新たな哲学、世界観を開拓する挑戦です。
これから、いよいよ『精神現象学』の最終章「絶対知」の部分の検討に入っていきます。
これによって、ヘーゲル弁証法の問題点、批判的なつくりかえ、唯物弁証法の理論が明確になるはずなんですが、はたしてどうでしょうか。歯がたつでしょうか。