みかんの木を育てる-四季の変化

2021/12/14(火)08:28

『経済学哲学手稿』7 ヘーゲル弁証法の批判

本棚で見つけたこの一冊(803)

​『経済学哲学手稿』7 ヘーゲル弁証法の批判​いよいよこのマルクスの小論も、そのヘーゲル弁証法の批判の中心部分に入っていきます。 マルクスが、ヘーゲルの弁証法をどうとらえて、それをどの様に批判したのか、ですが。 そのことは、とりもなおさず、唯物弁証法の哲学的世界観を確立するという問題です。 水泳というのは、泳ぐということの理論を知ることもさることながら、実際に泳げるようになることが肝腎です。こんな例えをヘーゲルはどこかで言ってました。それと同じく、ヘーゲルの弁証法から唯物弁証法への発展ですが、その核心は今を生きる人が唯物弁証法を知ることとともに、なおかつ肝心なことは、それを「道具」として実際に使いこなせるようになること。それが、私自身この学習の目標でもあるんですが。 第7回目の今回は、『国民文庫』版のP217から、「こんどはヘーゲルの一面性と限界を、現象学の終章、絶対知について詳しく述べよう」からですが。ここまでマルクスは、ヘーゲル哲学の全体をみての、総括的にその問題点や成果としての弁証法について述べてきました。ここからはヘーゲルの叙述そのものに即して、具体的に検討・吟味をする、批判作業をする箇所に入ります。 この問題は、エンゲルスが『フォイエルバッハ論』(1886年)で本質を簡潔にまとめています。しかし、ヘーゲルそのものにそくして具体的検討しているというのは、レーニンの『哲学ノート』(1914年)しか無いんですね。まして、このマルクスの『手稿』は、1932年に初めてモスクワで刊行・発表されたものです。それを日本で吟味できるようになったのは、1945年の戦後の民主的自由を得てからのことです。 それから75年がたちますが、これを具体的に評価したものを、私などはあまり目にしないんですね。研究者は研究してきたとは思うんですが。事柄は科学的社会主義の基本中の基本かと思うんですが、いつたい、その社会的な認識や評価はどういう状況になっているんしょうか。私などは、そのモヤモヤした状況に戦後日本の特徴がある、今に引きずる後遺症があると思っているんですが。まぁ、それはともかくとして、本題です。 一、マルクスは、ここでヘーゲル弁証法を、ヘーゲルにそくして検討しています。ヘーゲルの『精神現象学』ですが、その最終章「絶対知」について、 8つの文節に即して、検討していきます。 『精神現象学』の「絶対知」の章から、そのたった1ページから、その論点を8つの節に分けて、それを順次吟味してくんです。それが批判の作業過程なんです。 二、しかし、マルクスは、その各論の検討に入っていく前に、まず最初に、ここでの中心問題(要点)は何なのか、ということを提起しています。 それは「意識の対象性を克服することだ」と。と言われても、「何じゃそりゃぁ‥?」となりますから、その問いの位置を確認しておくことが必要です。 再度、これまでの流れですが、それを確認すると。1831年にヘーゲルが亡くなってから、その後の哲学者たちは、ヘーゲル哲学を口パクはしているけれど、まともに検討することはなかった。フォイエルバッハだけが唯物論の観点からヘーゲルを批判したが、その弁証法については批判し切れていなかった、とらえそこねていた。そうした中にマルクスが出てきた。 前回紹介しましたが、そこに現れた26歳のマルクスですが、三点を指摘しています。 1、ヘーゲル哲学の全体をみて、そこにある観念論の二重の誤りを指摘し紹介しています。 2、そして、ヘーゲルの弁証法について、その成果と重要性について、つかみ取っていたんです。これは、ヘーゲルが1831年に亡くなって以降に、マルクスが、ここで歴史上初めて事柄に光をあてた問題ですね。人類の認識を一歩前進させる開拓だったわけです。ですから、その項目の中身について、十分に意を尽くせているかどうかについては、中身に対してそれをどのようにわかりやすく表現しているかについては、割り引いて寛大でなければならないことなんです。それは「運動させ産出する原理としての否定性の弁証法」であり、その中身は「人間の自己産出を一つの過程としてとらえ」たこと。人間がつくり出したこと、その疎遠な総体としての対象性を、人はとりもどすようにして発展していく過程である、と。その労働が今の人間をつくり出してきたんだ、等々を、ヘーゲル弁証法の成果としてマルクスはとらえたんですね。 さらに第三は、(これが今回から展開していく本題にあたる問題ですが)、マルクスがこうした内容をヘーゲルから引きだすことは、簡単ではなかった。ヘーゲルの著作は実際にあたるとわかりますが、読み通すのは大変なんです。それを批判するなんてことは、それまで誰も出来なかったことでもあります。 3、ヘーゲル哲学と弁証法にたいする一面性と限界を指摘している、すなわちヘーゲルを批判する問題(課題)です。「こんどはヘーゲルの一面性と限界を、現象学の終章、絶対知について、詳しく述べよう―この章は、現象学の総括された精神、現象学と思弁的弁証法との関係をふくむとともに、また両者ならびに両者相互の関係についてのヘーゲルの意識をもふくんでいるからである。」(P217)マルクスは、この課題と、そこで解明した事柄を明らかにしようとしているんですが。 結論的に、この問題の核心に「意識の対象性を克服する運動」の問題があることをつかんだんですね。以上が、ここまでの全体的な流れです。 三、ヘーゲルの問題点、その主要な点は何かこれから『精神現象学』の「絶対知」の検討に入るわけですが、そのこまかな各論の検討に入る前のところに、マルクスは「主要な点はこうだ」(P217)として、問題の核心的大要をあらかじめ紹介してくれています。 ヘーゲルの著作はいずれも難解ですから、その言っていることに通じること自体が大変ですし、さらにそれを批判しようとしているわけですから、なおのこと大変です。その事柄の細部を批判していくには、粘り強い努力が必要です。マルクスは、この詮索していく過程でつまずかないようにと配慮しているんですね。 その問題点について、箇条書き的ですが、 人間が類的な存在として、外に疎外された形で産み出してきたこと。この対象性をとりもどすこと。 産みだしたものは、疎外された形で存在しており、それをとりもどしていく上で、1、ヘーゲルの場合は、対象性というのは自己意識だということ。そこに唯心論の性格が。 2、対象性は、一つの疎外された対象としての人間関係だと。 ヘーゲルの場合、人間のとりもどしは、疎外の止揚はだけでなく、対象性の止揚でもある。 3、ヘーゲルは、対象の自己への帰還(受けとめ)だけでは、一面的であると。 4、自己意識が目、耳などの本質的力もっているのは間違いで、自己意識は人間的自然の一つの質であって、人間的自然が自己意識の一つの質ではない。(これは唯物論だけど、ヘーゲルかマルクスか) 5、抽象的に固定された自己とは、エゴイズムが抽象性へ思考にまで高められたもの。 6、ヘーゲルにとっては人間的本質のいっさいの疎外は、自己意識の疎外としてとらえており、自己意識の疎外は、現実の疎外の表現、思考への反映された表現とはとらえず、本当の人間的本質の自己意識の疎外でしかない。  だからヘーゲルにとって、とどのつまりは「疎外された対照的ありかたを我がものとしてとりもどす獲得は、すべて自己意識への合体としてあらわれる。自分の本質を掌握する人間とは、対象的ありかたを掌握する自己意識にすぎない。自己意識が対象を我がものにとりもどす獲得である。」 以上が、これから「絶対知」での弁証法を検討していく上で、念頭に置いておくべき問題の中心点だと、マルクスがアドバイスしてくれているわけです。 今回は、ここまでです。 次回は、「絶対知」からの8項目についての検討に入ります。

続きを読む

このブログでよく読まれている記事

もっと見る

総合記事ランキング

もっと見る