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カテゴリ:本棚で見つけたこの一冊
『経済学・哲学草稿』9 草稿の全体像について 当方の12月-1月は、みかんの収穫期ということもあって、それに忙殺されてます。 もう一つは、雑誌『経済』2022年2月号に掲載された長久理嗣氏の研究「『経済学批判』の方法を探るマルクス」の紹介です。 「ヘーゲル弁証法および哲学一般の批判」 国民文庫版(藤野渉訳) P205-241(37ページ分) P205-207 一、ヘーゲル弁証法にたいして、バァウアーやシュティルナーの青年ヘーゲルは批判的意識を持っていない。 P207-211 二、フォイエルバッハは、ヘーゲル弁証法を意識する唯一の存在 1、フォイエルバッハの功績、3点 2、フォイエルバッハの「否定の否定」のとらえ方 P211-213 三、ヘーゲル哲学体系の全体を見る 要約-エンチクロペデーの体系 P213-216 四、ヘーゲルの二重の誤り 1、疎外を思惟形式の問題としてとらえる 2、疎外を我がものとするのは意識の中でのこと。 ここは批判的でない実証主義、批判的観念論がでている P216-217 五、ヘーゲル現象学の終極成果としての弁証法 P217- 六、ヘーゲルの一面性と限界 1、あらかじめ 2、主要な点 P219-220 3、『精神現象学』最終章「絶対知」から「意識の対象性の克服」について8点 P220-225 4、第一と第二「物性を措定するのは自己意識の外化」について これについてのマルクスの論点 P225- 5、第三、第四、第五と第六「他在の中で己のもとにある」について P226 マルクスの論点 P228 ここに思弁の幻想と偽の実証主義、見かけだけの批判主義の根が。 問題をフォイエルバッハは宗教論にしか見ないが、もっと一般的な問題だ。 P229 ヘーゲルの「否定の否定について」のとらえ方、止揚の独特の役割について P231-234 七、ヘーゲル弁証法の肯定的な諸契機-疎外の規定の内部での- P231 a、外化をおのれの中への取り戻ししていく対象的な運動として、対象の本質をその疎外の止揚によりわがものに獲得することの洞察。否定ということの肯定的な意味。 労働を人間の自己産出行為として、生成しつつある類的意識と生活としてとらえている。 P233 b、ヘーゲルの転倒性の帰結として、人間の自己産出は、 1、形式的抽象的な思考を本質とする行為として現れる。 2、外化、疎外としての自己産出は、絶対的、究極的な、おのれ自身を目的としている本質にとうたつした人間の生の表明。この運動がその抽象的な形式として弁証法の神的な過程として、人間とは区別された抽象的な絶対的な本質がみずから通過する過程として見なされる。 3、この過程は担い手、主体が問われる。その主体は神であり絶対精神としての理念。現実の人間や自然はその結果になる、転倒。 P234-241まとめ 第一、人間の自己産出行為の形式的で抽象的な把握。 第二に、論理学の積極的なものは、自然と精神の自立的な思考形式は、人間的本質が疎外された必然的な成果としてとらえ、その過程の諸契機を叙述し総括したこと。 第三に、論理学はその抽象的な思考だけでは無であり、自然がはじめてあるものであることの証明。論理学から自然哲学への移行。哲学者を抽象的思考から直観へ駆り立てる神秘的感情は、退屈であり、内容へのあこがれである。
雑誌『経済』2022年2月号に掲載された論文ですが、 だいたい、日本では率直に討論しあう習慣が弱いじゃないですか。
Last updated
2022年01月18日 11時34分25秒
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