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2022年01月18日
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​『経済学・哲学草稿』9 草稿の全体像について​

当方の12月-1月は、みかんの収穫期ということもあって、それに忙殺されてます。
12月31日の第8回「ヘーゲル弁証法の成果」のところで中座しています。

従って、その続きの中身については、今後のことにするとして、
今回は番外編で、二つを紹介します。
一つは、このマルクスの「ヘーゲル弁証法の批判」草稿の全体像です。

もう一つは、雑誌『経済』2022年2月号に掲載された長久理嗣氏の研究「『経済学批判』の方法を探るマルクス」の紹介です。



一、この「ヘーゲル弁証法の批判」草稿の全体像について
この草稿には、個々には検討を必要とするいろいろな論点があると思います。迷路にはまり込むこともあり得ます。だからこそ大体ではあっても、全体像をつかんでおくことが大事になっていると思います。
私の学習も、仕事で中座したおりでもあり、勝手な形ですが全体像を書き抜いてみました。


「ヘーゲル弁証法および哲学一般の批判」

国民文庫版(藤野渉訳) P205-24137ページ分) 

P205-207

一、ヘーゲル弁証法にたいして、バァウアーやシュティルナーの青年ヘーゲルは批判的意識を持っていない。 

P207-211

二、フォイエルバッハは、ヘーゲル弁証法を意識する唯一の存在

 1、フォイエルバッハの功績、3

 2、フォイエルバッハの「否定の否定」のとらえ方 

P211-213

三、ヘーゲル哲学体系の全体を見る

 要約-エンチクロペデーの体系 

P213-216

四、ヘーゲルの二重の誤り

 1、疎外を思惟形式の問題としてとらえる

 2、疎外を我がものとするのは意識の中でのこと。

  ここは批判的でない実証主義、批判的観念論がでている 

P216-217

五、ヘーゲル現象学の終極成果としての弁証法 

P217-

六、ヘーゲルの一面性と限界

 1、あらかじめ

 2、主要な点

P219220

 3、『精神現象学』最終章「絶対知」から「意識の対象性の克服」について8 

P220225

 4、第一と第二「物性を措定するのは自己意識の外化」について

これについてのマルクスの論点 

P225

 5、第三、第四、第五と第六「他在の中で己のもとにある」について

P226 マルクスの論点 

P228 ここに思弁の幻想と偽の実証主義、見かけだけの批判主義の根が。

     問題をフォイエルバッハは宗教論にしか見ないが、もっと一般的な問題だ。

 P229 ヘーゲルの「否定の否定について」のとらえ方、止揚の独特の役割について 

P231234

七、ヘーゲル弁証法の肯定的な諸契機-疎外の規定の内部での-

P231 a、外化をおのれの中への取り戻ししていく対象的な運動として、対象の本質をその疎外の止揚によりわがものに獲得することの洞察。否定ということの肯定的な意味。

労働を人間の自己産出行為として、生成しつつある類的意識と生活としてとらえている。

P233  b、ヘーゲルの転倒性の帰結として、人間の自己産出は、

1、形式的抽象的な思考を本質とする行為として現れる。

2、外化、疎外としての自己産出は、絶対的、究極的な、おのれ自身を目的としている本質にとうたつした人間の生の表明。この運動がその抽象的な形式として弁証法の神的な過程として、人間とは区別された抽象的な絶対的な本質がみずから通過する過程として見なされる。

3、この過程は担い手、主体が問われる。その主体は神であり絶対精神としての理念。現実の人間や自然はその結果になる、転倒。

 P234241まとめ

第一、人間の自己産出行為の形式的で抽象的な把握。

第二に、論理学の積極的なものは、自然と精神の自立的な思考形式は、人間的本質が疎外された必然的な成果としてとらえ、その過程の諸契機を叙述し総括したこと。

 第三に、論理学はその抽象的な思考だけでは無であり、自然がはじめてあるものであることの証明。論理学から自然哲学への移行。哲学者を抽象的思考から直観へ駆り立てる神秘的感情は、退屈であり、内容へのあこがれである。


以上です。
もちろんこれは必ずしも正確・厳密なものではありません。
あくまで、これから読みすすんでいく上で、自分自身が途中で道に迷わないためのもので、大よその輪郭です。
目下のところ、「五、現象学の最終成果としての弁証法」あたりまで来ているということです。


二、こうした中で、つい1週間くらい前ですが、一つの論文を紹介してもらいました。

雑誌『経済』2022年2月号に掲載された論文ですが、
長久理嗣氏の研究「『経済学批判』の方法を探るマルクス」です。

私などの目下の学習と、対象が重なっているんですね。
私などは、これまで達磨大師のような気分で、このヘーゲル弁証法を真剣に検討する人は、今の時代に誰もいないんじゃないか、壁に向かって独り言を言っているような、そんな気分でいたんですが。
ありがたいことじゃないですか。
今時、同じ対象に、こんなテーマに挑戦しようというような奇特な方がいたんですね。事柄の中身にふれて検討しているのを聞くのは初めてじゃないでしょうか。これにより、壁にむかって学習していたのが、事柄について対話・討論をしているかのように、検討していることが比較検討できるんです。これは、私などがこの草稿を読み進めていく上で、何よりの刺激になるんですね。いろいろと感じる問題はあるんですが。
でも、今は、細かな違いを詮索するよりも、(それが、これまでの研究者にはよくありがちな傾向だったんですが)、大事な重要問題をお互いにどの様につかんで、それをどの様に刺激しあって探究できるのか、その点が一番大事な事柄になっているんじゃないかと思います。

だいたい、日本では率直に討論しあう習慣が弱いじゃないですか。
政治なんて、小学生以下の討論じゃないですか。
如何に誤魔化すかが技量となっているじゃないですか。

まあ、そんな中でのことですから、
「朋あり、遠方より来る」といったような期待をするところなんですが。







Last updated  2022年01月18日 11時34分25秒
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