『ヘーゲル法哲学』の学習(3)「君主権」
福田静夫講師の第2回『ヘーゲル哲学』学習会が、4月10日に開かれました。
通しでは26回目とのことですが、国家論の「君主権」(第275節-286節)を学習しました。
コロナによりズーム学習をしてくれているので、私なども視聴することが出来るんです。
ただ、ライブの視聴だけでは、私などの頭には大よそのことしかわかりません。後から録音CDを送っていただけるので、それを聞き返すことで、福田先生の講演の正確な内容が理解できるわけでして。
私などの発信は、CDが届くまでには約1カ月の時間差ができますから、その間の視聴をもとにしての勝手な感想なんです。福田先生の実際の話は、もっとうん蓄の豊かなものだということを断っておきます。
「君主権」(第275節-286節)について
一、君主権と聞くと、「なんと時代遅れなことを」と感じるかもしれませんが、そうじゃないんですよ。
私などは、マルクスの『ヘーゲル法哲学批判』を学習したことがあるんですが。
マルクスは『ヘーゲル法哲学批判』「序論」で、総評を述べています。
「ヘーゲルによってもっとも筋道だった、もっとも豊かな、そして究極的な形にまとめられたドイツの国家及び法の哲学に対する批判は、一面、現代国家とそれにつながる現実との批判的分析であるとともに、他面またドイツの政治的および法意識の従来のあり方全体の決定的否定でもある」(全集第1巻)
『法の哲学』は1821年に刊行されてますが、1829年にヘーゲルはベルリン大学の総長に指名されているんです。プロイセン国家からも重要視されていたわけです。
ヘーゲルは、「君主論」の本質をどのようにとらえていたか。
前回、戦前の日本の「天皇機関説」の源流には、ヘーゲルの君主権の機関説があるんじゃないかとの仮説を紹介しましたが。
二、ヘーゲルは「君主論」をどのように規定しているか。
第275節ですが。ここでは君主権は3つの契機があり、その総体をもつと。
1、憲法・法律の普遍性、2.特殊なことを普遍に関連づける審議、3、最終決定すること。
ヘーゲルは、みずからを国立大学の総長に指名したような、啓蒙的な君主権をイメージしていると思うんですよ。それは、憲法の普遍性とも合致していて、それをもとにして個々の意見を審議により普遍的なものにする、議会制民主主義のような、さらに君主はそうした中身を決断し・執行するものだ、と。
ここには、イギリスやアメリカ、フランスの近代民主主義の精神を、後進的だったプロイセン国家がどの様にすすんでいくのか。ヘーゲルの法哲学の世界的なスケールの大きさがあると思うんです。
マルクスの言う「ヘーゲルによってもっとも筋道だった、もっとも豊かな、そして究極的な形にまとめられたドイツの国家及び法の哲学に対する批判は、一面、現代国家とそれにつながる現実との批判的分析である」ということですが、こうした点にもあるんじゃないでしょうか。
三、ところが1831年にヘーゲルがコレラで突然死して以降のプロイセン国家は、どうなったか。
マルクスが体験しだした君主制は、憲法や審議などに対立して蹴飛ばして、勝手な恣意を押しつけてくる、要するに専制君主制の政治反動ですね。ライン新聞は検閲され禁止され、学問の道はとざされ、結局自由な発言はできずに、国外追放を強いられる。
おなじ「君主制」といっても、ヘーゲルとマルクスとでは、その体験や認識とでは大きなギャップがあったわけです。
マルクスは、ヘーゲルの哲学的な考え方にも、原理的な問題があることを指摘しています。
君主権の理念が、概念と存在が一致するものとしてあるのが現実だというのはおかしい。概念があくまで本質的なもので、現在の諸形態というのはその現れ(仮の姿)だというのは、逆立ちしている、と。
それはぎゃくであって、現実の諸形態・諸問題を総括する中から、その概念がつくられるんだと。
四、今日の私たちから見ると、どうか。
日本は、天皇機関説を追放して、神がかり的な天皇絶対主義に転換した。それは『満蒙は日本の生命線』、『鬼畜米英』の戦争への道、その結果が、国民の苦難な敗戦だったわけです。
しかし、日本では、その誤りの本質的反省が、責任ある人たちからは、一向になされてませんね。
ドイツとも、イタリアとも違って、大事な点を曖昧にごまかしている日本です。
戦後70年、国民が苦難の中から手にした平和・民主の憲法ですが、
ここへきて第9条を変えたい、軍備増強して、核兵器を共有したい、なんてことを。
何故、この逆流が起こるのか。なぜ逆流が大手を振っているのか。
その自民党・公明党の政治路線ですし、
さらにそれに野党の一部も加わろうとしているんですから。
ここは、根本的に、戦争か平和か、問われている問題ですね。
戦後の国民主権、憲法の理解が問われるということですね。
それは古今東西の、世界の学術の歴史が積み重ねてきたことにたいする誠意の問題ですね。
それ引き継ぐのか、それともなげ捨てるのか、それが再び問われているわけです。
私などのヘーゲルやマルクスの学習も、そうした一環としてあるわけです。