ヘーゲル『法の哲学』9 c立法権の第299節
今日は6月12日、あと5時間後に福田静夫先生の講義が始まります。
今回の対象は、第三章国家c立法権の前半の第298節から309節です。
1週間くらい前に先生からレジメが送付されてきてます。
二つのレジメがありまして、
レジメの1は、該当部分を福田先生が翻訳してもので、ヘーゲルの文章を正確に訳そうとされてます。
レジメの2は、マルクスが『ヘーゲル法哲学批判』での該当部分に対する批評です。
事前に読み込んでおくことが求められてるんですが、通読するくらいで、なかなかままなりません。
今回の予習ですが、第299節です。
先生の翻訳されたレジメのおかげで、該当部分を精読する可能性が出来るんです。
これまでは、難解な文章との印象があって、サラッと通読しただけだったんですね。
一、第299節の内容ですが。
第299節は、本論、注釈1、注釈2、注釈3、追加の5つのパートからなっています。
中身は、立法権・国家体制と個人との関係を述べていますが、ようするに権利と義務ですね。
a.国家は個人に利益・福利・施策などの全体をあたえる。b.これに対し個人は、国家に対して務め(税金)をはたしている、この二つの面についてヘーゲルは展開しています。
そしてb.「個人の務め(税金)」については、普遍的な価値としての貨幣に還元されることによってのみ公平に規定されるものとなり、同時に、お上による強制でなく人の意志を通過するものになると。そんなことを本論で述べてます。
(これは、権利と義務の関係をヘーゲルが述べてるわけですが、書かれたのが1821年ですからね。
近代の民主主義の基本を説いているわけです。日本は、政党の選挙の公約にたいする位置づけの認識一つにしても、共産党以外お粗末じゃないですか。当選しさえすれば、勝手なことをやりだす。ないし、選挙の時にはやりたいことの本当をちっとも語らない、国民の白紙委任をもらう手練手管に選挙がなっているじゃないですか。ヘーゲルの、ドイツ観念論の民主主義的な精神を感じさせますね)
さて続く「注釈」ですが、ヘーゲルが何度も講義をするうちに後から追加したんでしようか、より細かな具体的な説明として、添えられてます。
注釈2は、「国家は、その税を物納ではなく、金納とすることで公正と公平をはかる」
「追加」では、「務めに関しては、今ではほとんどすべてが貨幣に還元される。兵役義務が今では唯一の人身的な務めにすぎなくなっている。・・・貨幣によってこそ、平等という正義は、うまく貫徹されるのである」
だいたいヘーゲルはこの節で、以上のことを述べています。
二、次に、これを読んでの、私などが気づいたこと、ひらめきというか問題意識というか、
そんなことの紹介です。
1、日本の近代の入り口に、明治維新後に「地租改正」があるでしょう。
私などは、これに関係していそうだとのひらめきがありました。ここでのヘーゲルの洞察と、一面で重なるものがあると感じたんです。
その『地租改正』ですが、
江戸時代の税は「石高制」でしょう。佐々木寛司著『地租改正』(中公新書 1989年刊)によると。
「旧体制下における石高は、現実の土地収穫高をはんえいしているというよりは、むしろ大名に対する家格表示の意味合いが強く、その石高を特定地域-村-百姓と下向的に割り付ける方法が多く取られていたことから、土地収量や面積は、検地当初からその正確さにかけており(中村吉治『幕藩体制論』)、体制の基本原理であるはずの石高制そのものにも、実際には、各藩、各地域によって相当に異なる面が存在していた。」(P20)。
こうした問題が「地租改正報告書」に旧来の税制がもっていた不公正として多岐にわたってまとめられていた。こうした事情が『地租改正』で全国的に統一しようとする一つの大きな要因になっていた指摘しています。
ただし、明治政府の、お上による税収の確保との点から、「強制でなく人の意志を通過するもの」などではなくて、たいへんな過酷な取り立てだったようです。この二面性をもっていたということです。
2、さらに勘なんですが、教科書風には『地租改正』は言葉としてしか紹介されてないように、私の不勉強のせいかもしれませんが、記憶しています。
誰などが、こうした点を言葉を踏み込んで学研の遡上に上げたのか、この問題があります。
戦前のマルクス経済学者や歴史家は、きっと研究していると思いますよ。私などはそれを知らないだけだと思うんですが。というのは、こんな問題を気軽なかたちで研究・議論できるのは、1945年以降の戦後のことじゃないですか。戦前であれば、こうしたこと治安維持法により刑罰が科せられるといった内容じゃないですか。
だから、空白があってもおかしくないし、それを1950年生れの片田舎育ちの私などが、認識を埋めるには、自然にはいかず、それなりの努力が必要だということです。
たまたまですが、ハーバート・ノーマンという人がいました。1957年4月に思想弾圧が原因だったようですが、自殺して亡くなっているんですが。彼が、日本の近代史について、終戦の前後ですが、日本の社会科学がまだ戦中の痛めつけられた状態にいたときに、このへんのところを研究していたんですね。
今、問題となってきている日本社会にあるジェンダー差別ですが、彼はその原因となっている歴史を、戦前の日本社会を調べていたんじゃないかと思います。
それが確かかどうか、今後、調べてみなければならないんですが。
ようするに、日本の今につながっている問題なんですね。
(追加 地租改正については、戦前に野呂栄太郎が『日本資本主義発達の歴史的条件』(1927年12月)の中で、その中身とはたした意義を検討しているようです。どの様な内容だったのかは、まだ私は確かめれてないのですが)
3、もう一点、気が付きました。マルクスの『資本論』です。
ヘーゲルの『法の哲学』のこのあたりのくだりが、諸国家の歴史が、時代的に独自な原理をもって発展してきたし、していくとの唯物史観のヒントになっていると思うんですよ。
さらに、いろいろな諸労働がどうして等値できるのか。価値という共通なもので比較するすること。実際に賃金、所得として、貨幣でそれをやっているわけですが。
だいたい、所得税の申告制度だって、所得額の段階によって、税額が決められている。これは国民の公平感の基礎になってるじゃないですか、そこが以前の社会とはちがうところじゃないですか。
このマルクスの労働価値説、価値形態論ですが、そのヒントにもヘーゲル『法哲学』のこのあたりがなっていることを感じます。
じっさい、『資本論』の索引を見てみてください。
そこでヘーゲルの『法哲学』がどの様に引用されているかを見てみると。
第一巻がほとんどですが、1.P82、2.163、3.294、4.641の4か所で引用されてます。
1.労働の多様性、すなわち複雑労働を単純労働に還元する問題。
2.価値の概念とは表象であって、労働という人間の諸作業は、それに置き換えらることで比較できる。
3.特殊な諸労働の切り売り(賃労働)というのは、こうした関係があってこそできる。
マルクスが労働価値説や価値形態論を着想し、探究してった際に、このヘーゲル『法の哲学』のこうした考察が大事なヒントになっていた、そのことが分かるかと思います。
さて、今回は、これまでです。
今回の講義の範囲からしたら、前回の第298節と今回の第299節は、はじめの二つの節にしかすぎません。全体では13節分がありますから、講義に聞き耳をたてれるためにもその通読に移ります。