みかんの木を育てる-四季の変化

2022/10/15(土)17:14

「ミヤケンさんの思い出」-太田晴夫さんの備忘録

本棚で見つけたこの一冊(811)

​太田晴夫さんの「ミヤケンさんの思い出」​日本共産党は創立100年を迎えました。志位和夫委員長が9月17日におこなった記念講演は、「日本共産党の100年の歴史と綱領を語る」(290円+送料100円)としてパンフレットとなってますから、日本共産党中央委員会出版局に申し込めば手に入ります。私が今回紹介するのは、太田晴夫さんの「ミヤケンさん思い出」です。 2022年10月4日に刊行されたパンフレット(54ページ)です。「ミヤケンさん」とは、日本共産党の宮本顕治氏(1908-2007年)です。 太田さんは、東京多摩市の永山団地の朝市を主宰されてます。 私などは、小田原のみかん畑で栽培・収穫したみかんを、この朝市で販売させてもらってるんですが。 ようするに、小田原・真鶴のみかん販売でお世話になっているんです。 一、ひとはさりげない日々においては、いろいろ自分の都合をかかえてますから、なかなか目の前にいる人について、その人が実際にはたしてきた役割や価値を知ることが出来ないんですが。今回の「日本共産党の歴史の背景を知るいち助になれば」の冊子を読むと、 太田晴夫さんは、1973年ころから長年にわたって、宮本顕治氏の近くで働いてきたようです。 このパンフレットは二部だてになっていて、 第一部は「自分史的メモ『ミヤケンさんの思い出』」(2017年5月25日) 26ページ。 第二部は、エッセー風私論『中條百合子はなぜ宮本顕治を選んだか』(2016年9月25日) 28ページ。 です。 これにより、宮本顕治氏の日常の人となり、綱領路線の探究・努力となりが、 独特に身近かにあった人ならでわの存在として、具体的なエピソードと息遣いで、紹介されているんですね。 硬く言えば、綱領路線がどの様な努力によっておこなわれてきたか、ということですが。 その理論が、どの様な努力により現実にもたらされたのかという、生活を共にした人による紹介ですね。 こんな歴史がつくられた具体的な生の話というのは、なかなか聞けるものじゃありませんよ。 私などは、「人間としての宮本顕治」氏がつたわってきて、なかなか貴重な側面とみるんですが。そんな作品というのはなかなかないんですが、 それは、私などは、かえって理論を具体的につかめる力をもってるように感じるんですよ。 まぁ、似たようなものとしては、 レーニンに対するクループスカヤの『レーニンの思い出』のようなものでしょうか。 二、私が今回対象にしているのは、第一部の『ミヤケンさんの思い出』です。 日本共産党の宮本顕治氏が亡くなってから、すでに15年が経過しているんですが、 2012年には『宮本顕治著作集 全10巻』(新日本出版社)が刊行されたんですが。 その諸論文の背後にあった努力・人柄というのは、関係する人ぞ知ることといったところで、 直接経験として語れる人というのは、まれにしかいないんです。 今回の志位和夫委員長の記念講演は、宮本氏の努力を少しですが埋めてくれたんですが。 私は、人は時を逃がしてきたと思ってるんです。 もっともっと、身近かにその努力を知っている人たちが、宮本顕治氏の個人ということだけでなく、それは日本共産党の綱領路線を開拓してきた生きた努力というものですから。それを、近くにいた人は、もっと語ってくれてしかるべきだと思っていたんです。その人たちには、その責任があると思っているんですが。 実際には、それがなかなか無かったんです。 もちろん、それぞれの人には、気持ちのどこかには、そうした認識はあったと思うんですが。どんどん、直接の関係者はあの世に消えていってしまい、その生の証言は出来なくなり、消えていっているんです。そこには大事な事柄がたくさんあったと思うんですが。 もったいないことです。 三、そうした中での、太田晴夫さんの今回の「日本共産党創立100年にあたって」冊子です。私などが注目した点を、2つだけ紹介します。 一つは、あとから当たり前とおもっても、その現実にあっては慣習となっている習慣を変えるという問題です。だいたい世界の社会主義、共産主義の運動は、はじめはソ連への信頼や現実な期待があったでしょう。それがいつのころからかおかしくなっていた。その現実の中に起きた異常に気付かずに、是も非をふくめて信頼が権威となり、それに対する信頼という追従があった。そうした中にあって、日本の共産党が「自主独立の立場」と言われてますが、自主的・主体的なユニークな立場なんですが、自国の綱領路線を他国の権威によることなく、自分自身の頭でつくるという自覚にたった。そんな自覚がどの様な努力によってつくり出されたか、なんですが。その努力の側面が紹介されてます。たった『りう』の2字ですよ、それをくわえたことに、正確な事態をつくろうとする表現となったことが紹介されてます。そうした努力の全体について、自民党の要職、対極の位置にあった中曽根康弘氏ですが、宮本氏の死去に際して述べた評価・感想が紹介されてますが、これもたいしたものですね。「敵ながらあっぱれだと感じていた」と語っていたとの、そんなエピソードも紹介してくれています。 二つ、1980年1月の「社公合意」によって、理由なく共産党とは一緒にやらないとの政治シフトがしかれた時。日本の政治世界の中で、政治革新をめざそうとする野党が、他にまったくいなくなった時に、国民要求にこたえようとする政党が自分たち以外にはなくなったときに。政党として共に政治革新をしようと努力する者がいなくなったとき。まぁ、戦前の大政翼賛会がつくられたような事態じゃないですか。そうした困難な事態のなかで、国民本位の政治革新をめざす政治家として、どうしたか。どの様に事態を打開してきたか。そんな時の様子を、『全国革新懇35年のあゆみ』(2016年3月刊行)で、小中陽太郎氏が紹介してくれていた。そうした努力をエピソードとして語ってくれているのを紹介してくれています。 この二つからだけでも素晴らしいんですが、なによりも私などはそこにある人間性というものが紹介されていること。この点がすばらしく貴重なものだし、ほほえましいんですね。 四、第二部の宮本百合子論は、また別に紹介させていただくとして。この太田晴夫さんの冊子ですが、私は10冊だけあずかりました。 それをプレゼントしたいと思います。 冊子自体は無料なんですが、実費送料はかかります。 10冊ですから、すぐになくなっちゃうかもしれませんが、 希望される方は、メールなりコメント欄で申し込んでください。みかんの収穫も忙しくなりますから、 期限を2022年10月末までに申し込みの方、とさせていただきます。それまでに現物が無くなってしまったら、ごめんなさいですが。

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