みかんの木を育てる-四季の変化

2024/01/04(木)19:06

知らぬが仏で、初仕事をしていました

一夜城のある小田原・石垣山のみかん園(84)

​知らぬが仏の、みかんの初仕事​元旦、八王子をお昼発で、小田原のみかん仕事に出かけていました。 小田原のみかん園では、テレビも新聞もありませんから、 いわば世間から隔絶されてます。 だから、午後4時の能登半島の震災は知らなかったんですね。 翌日の朝のラジオニュースで知りました。 これは東日本大震災級の震災じゃないですか。 しかも、やはり原発の立地している箇所での震災です。 政府にたいしては、「それみたことか」ですが、 国民の被災した人たちの生活からしたら、そんな水かけのような議論ではすまない問題です。 責任感の欠如した政治の結果ですが、そんな指摘をしてたことで、現実の打開はすみません。 そうした震災事態をラジオで探りつつも、みかん仕事をしてきました。 これは、「西部開拓史」の小田原・早川版です。 みかん園は、一年でも放置されると、雑草に覆われてみかん畑は喪失します。 2-3年が過ぎると、元の山林に、雑木林にかわります。 その雑木林を、ふたたび畑にかえようと、二人のボランティアが自然の力と格闘しています。 早川のみかん農家も高齢化して耕作する範囲が狭まり、耕作放棄地が広がっているわけです。 この開墾も、高齢化した農家では無理ですから、援農ということの一つの形です。 88歳の園主さんからは「ケガをしないようにやってください」とのメッセージです。 ギリギリの努力をしてきたなかでのこうした結果ですから、農家に責任を問うことなんてできません。 政治の力がちっとも働かない中で、個々人のボランティァがサポートしている次第です。 少しは政治の力は何とか働かないものでしょうかね。戦後80年のこれが結果です。 これ早川の30パーセント余の耕作放棄地の姿であり、全国の一般的な農家の声なき声です。 当方の仕事は、元旦の夜に雨が降ったため、2日午前はみかんの収穫は出来ませんでした。 かわって、この時を使って、みかん園の枯れ木の除去することでした。 みかん小屋の上あたりのみかんの木ですが、 みかんが赤いのは、成熟の為でなく木が枯れてしまったためです。木が濡れてみかんの収穫が出来ないこのときに、その時を使て枯れ木・枯れ枝の除去です。 みかん園の外側の、右隣に移しました。 枯れ木というのは結果です。なぜ木は枯れたのかが問題ですが。 みかんの木は、いつまでも木にみかんをつけていると、みかんが養分を吸い続けていて、そのために木が疲弊していしまうわけです。 この時期の一番の手入れは、まわりの農家がそうしているように、12月末までに『荷下ろし』-みかんの木がら果実をおろして、木を休ませることです。 一つの枯らしてしまった原因は、収獲すべき時に、それが出来ていなかったことです。 私などもそれがわかってはいるんですが、 なかなか手が及ばない、収獲への集中力が弱いということです。 しかし、今年は今回も、1月4日というのに、援農の方が2人来てくれました。 一つの畑について『荷下ろし』を果たすことが出来ました。 みかんの木も「ほっと」していることと思います。しかし、まだまだ、手つかずの畑が残っているということです。 作業を終えて援農の方がつぶやいていました。『ここは宝がいっぱいですね』と。 その通りなんです。 石垣山は「宝の山」なんです。 しかし、高齢化した農夫は体力の限界で働いていて、その宝のなかでアップアップしているんです。 宝のはずなのが、残酷労働の難行苦行として、そけれを実感することはきません。もしもできるとしてら、それは援農者の力添えがあってこそ、仕事に笑いが出て来て、名実ともに宝の山ということになるんですね。それが欠落しているわけです。 そんな1月4日でした。 社会の動きからは隔絶された3日間でした。 震災も知らなかったんです。 しかしですよ、 ここで頑張ることが、しいては被災地の復興につながるものと思っています。 ここで手を弱めてしまっては、支援する力もそがれると思い、頑張っている次第です。

続きを読む

このブログでよく読まれている記事

もっと見る

総合記事ランキング

もっと見る