マルクス『経哲草稿』「ヘーゲル弁証法」批判47
まとめていて
いま、マルクス「ヘーゲル弁証法」批判の学習発信をまとめています。
この学習発信は、私にとっては、達磨大師のように壁に向かって発信しているようなものでしたが。
お二人の方から、コメントをいただきました。

今回は、そのコメントの紹介です。
〇Sさん
「弁証法、唯物論、現代こそ必要ですね。
哲学を基礎とした洞察力が必要な時代だとおもいます。」
〇Mさん
「本論に入ってきました。「本論に入るにあたっての見取り図」、とくに序論の総括は、興味深いところです。
話は前後しますが、「序論」というと、一般的には、「本論」に対しての導入。該当論述の主題や目的を明らかにするもの。つまり、当該論述の「意義と限度」を確定し、論述の範囲を限定するものだと理解しています。しかし、これはレポートレベルの話なのかもしれません。先のシリーズ、ヘーゲルの「歴史哲学講義」において、その「序論」は「藪から棒」の論述が、実は本論で迷子にならないための「アドバイス」=地図の提供であった様に、今回のシリーズ、マルクスの「経済学哲学手稿」でも、見取り図の提供。これが本来の-新たな知見・新たな地平について論述する場合の-「序論」の役目なのかもしれません。
「序論」は、「本論」において検討された事柄は「結論」として総括され、更にこれを踏み台にして、より一般的=抽象的な形で、該当論述を鳥瞰させるものなのかもしれない、と考え始めています。これって、学研の深化=発展ではないでしょうか。初学の我々は、「見取り図」を渡され、論者に導かれながら各論的考察を進め、結論に至る。この時、先の「見取り図」は、ペラペラな紙片ではなしに、内実をともなった、現実をも映し出すパノラマとなるような気がします。加えて、この展開は、我々読者のみならず、論者にとっても(当然、我々とは深化の度合は異にしながらも)同様の深化発展といえるのではないかとも思います。
因みに、茶道の世界に『利休道歌』(『利休居士教諭百首詠』)というものがあります。そのうちの一つに、
稽古とは一より習ひ十を知り
十よりかえるもとのその一
と、あります。難しいことではありますが、始めは、規矩を教えられ、その内容など解らないまま、ただただその形を習い、習い習って一歩一歩深化し、十まで進んだ人がもとのその一に戻った時、それは一段高い「一」でなければならないはずです。また、本当に習い習い習ったならば、それは必ずや一段高い「一」のはずです。さらに、また十へ習いを進めることだろうと思います。これを発展といわずなんとしましょう。これを弁証法といわずなんとしましょう。」
(Mさんは、節々において、20数通もの意見や感想を寄せてくれました)
私などが、ヘーゲルとマルクスという、この二人の困難な山に登れているのは、途中棄権しないで続けられているのは、こうしたコメントに励まされてのことなんです。
そこで寄せられた疑問ですが、それは私自身の疑問でもありましたから、これまた、問題と向き合うことにもなりました。一人だと、わかったような、わからないような、あいまいなままで進むということがたたありますから、疑問もまた、大事な刺激になりました。
感謝です。