マルクス『経哲手稿』「ヘーゲル弁証法」批判42 肯定的契機①
マルクス『経哲手稿』「ヘーゲル弁証法」批判42 ヘーゲル弁証法の肯定的諸契機①これまでマルクスはヘーゲル弁証法の問題点について指摘してきました。「こんどはヘーゲル弁証法の肯定的諸契機―疎外の規定の内部での―をとらえる」にすすみます。ヘーゲル哲学からマルクスは何を学んだのか、です。『国民文庫』版では、P231第58文節からP239第69文節までの、13文節分が対象になります。この論文にとって、ここは圧巻的な内容となる部分かと思います。それなりに長くもありますから、全体を3つの部分に分けて学習していきます。①は、(a)「外化したものを自分のなかにとりもどす対象的運動-止揚」です。第58,59,60文節です。②は、(b)形式的、抽象的にとらえたことでの肯定面です。第61,62,63,64文節です。③は、論理学の役割と、ヘーゲルのもつ悩みです。第65,66,67,68,69文節です。前回と同じやり方で、二重の仕方ですすめます。最初に、マルクス自身の叙述を、大筋をつかむために簡単にまとめます。次いで、何が問題なのか、その論点をさぐってみます。全体の課題が冒頭にあります。「こんどはヘーゲル弁証法の肯定的諸契機―疎外の規定の内部での―をとらえる」(P231第57文節)です。ヘーゲルをひも解いた方は、誰しもきっと感ずると思いますが、どれもじつに難解です。それもそのはずで、この本の訳者の一人でもある真下信一先生によると、「昭和の初めの学生時代に、当時の哲学教授からヘーゲルは「三大難書」の一つだと聞いた」とのことです。(『時代に生きる思想』(新日本新書)P194)ましてや私などが「本当にその中に、宝が含まれているの?」、などの疑問は当然のことなんです。私などは、名古屋の日本福祉大学名誉教授の福田静夫先生の講義を聞けました。コロナのおかげで、一昨年に、ズームでのヘーゲル学習に参加する機会を得ました。『すばらしい』、この日本にも長年、真摯にヘーゲルをさぐっておられて、その今日的な精神を熱く説いておられる方がいるんですね。私などは、チョット聞いただけですが、その努力が一般に知られてないのは「実にもったいない」と感じさせられて、ブログで紹介しました。さらに、恐れ多くも、怖いもの知らずでして、ヘーゲル『歴史の中の弁証法』冊子をつくって、自費出版してしまいした。今回のマルクス『経済学哲学手稿』「ヘーゲル弁証法」批判も、その続編なんです。ようするに言いたいことは、マルクスの『経済学哲学手稿』の努力が、ヘーゲル弁証法に対する検討が、一般に知られていないことは、実にもったいないということです。本題にもどります。以下は、マルクスがヘーゲルの弁証法について、この箇所で叙述した3つの文節についての要約です。『1、P231第58文節「(a)外化したものを自分のなかにとりもどす対象的運動、止揚ということ。これは人間が対象化するということの疎外された洞察であり、対象的世界の疎外されたあり方を止揚することで、対象的本質を自分のものすることの洞察だ。それは神を止揚する無神論、私有財産を止揚する共産主義とも共通だ」と。2、P232第59文節「止揚によりできた無神論や共産主義というのは、人間がつくりだした対象の本質を損なうものではなく、昔の懐かしい世界にもどることでもない。それはむしろ、はじめて人間の本質的なものを新たにつくりでしたものだ」3、P232第60文節 こうしてヘーゲルは、それ自身の否定ということの肯定的な意味を、疎外の形においてしめした。それは、人間の自己疎外、人間的本質の外化、外化した対象性を剥奪する、自分のものとして獲得する。本質が変化して、自己が対象化する、自己が現実化するとしてとらえる。ようするに抽象の内部で、労働を人間の自己産出行為としてとらえる。また、自分が疎遠に感じているのを、生成しつつある類的意識と類的存在としてとらえていることにある。』第58文節ですが。自分がつくりだしたはずのものが、自己の外側に疎遠な対象としてある。自己を押しつぶすようなものとしてある。これを自分自身のうちに取りもどすということが問題になっています。それが、「アウフヘーベン」ということですが、すなわち、対象性を「止揚すること」であり、「揚棄することで、その疎遠さというものを克服して、それを自分自身のものにとりもどすということですが。その具体例として、たとえば神様。人が対象物としてあがめる神様ですが、その対象という性格を取り除くことで、それまで対象的なのものと見なしていた崇高さというものは、それは自分自身がそのように感じていて、自分が思い描いているものであって、実際には自分自身がもっている能力であり感受性でもあるということでもあるということ。それまで対象として、相手として見ていたものは、実は自分たち自身がつくりだしているところの力なんだということ。「私的所有を止揚する共産主義」ということも、大きな力と存在として目前にある財産や富というのは、それもとどのつまりは労働する人間の労力によって、人間自身の労力により、つくりだされたものであり、働く人間がつくりだしているものなんだと。第59文節ですが、「止揚」によってつくりだされるものは、節約や我慢によってではなく、すなわち何か自己を犠牲にしたり、我慢したりすることによりそれが生みだされるといったことではなくて、それは原始的な素朴な昔の世界にかえることでもない。前にむかって螺旋的に発展させていくということ。もっと豊かな新しい世界が、この活動のなかから新たにつくりだされていくということ。第60文節、ヘーゲルの言う「否定」とは、そうした規定すること、それは新たなものをつくりだすこと。人間が人間の外に何かをつくる。それはつくった当事者を押しつぶすような、独立した大きな力にも見える。しかし、それはとどのつまりは、人間の本質が対象という形で現実的なものに変化したものにすぎない。その疎遠な対象性を剥奪(克服)することで、人間が産出したものとして、本来の関係をとりもどそうとすること。その場合、自分自身が無力と感じていることのなかには、人間としての存在が、類的(社会的)なものであること。車や電車で移動し、電気釜でご飯を炊いて食事している現代人は、そうした社会的力のもとにある。個人は電気理論など詳しく知らなくても、その社会的力の恩恵にはあずかっている。たとえ一人ひとりが無知な場合もあるけれど、その人を含めた全体の社会的な力というものは、その時代、その社会において、一定の社会的な質というものをもっているんだと。そうしたことを、マルクスはヘーゲルの「否定」とのなかには、そのなかに積極的で肯定的な契機としてあるといっているんじゃないでしょうか。このことから分かることは、そのことはヘーゲルが直接に述べていることではありません。ヘーゲルの文章は抽象的でもあり、わかりにくい表現のかたまりなんですが、しかし、その中にはマルクスが読み取った事柄が、確かに契機としてふくまれていること。タイトルをもう一度振り返ってみると、「こんどはヘーゲル弁証法の肯定的な諸契機―疎外の規定の内部での―をとらえることにする」これがこの節の冒頭の書き出しです。P231第57文節。マルクスが言いたいことは、ヘーゲルの抽象的で難解な文章のなかには、ヘーゲル弁証法のなかには、こうした見方が含まれているよ、と。これはヘーゲルが洞察したことのなかに、確かに含まれている肯定的(積極的)な契機に対してのマルクスによって解明された事柄なんですね。ただし、もったいないことに、『経済学哲学手稿』は、1883年にマルクスが亡くなるまで、出版されることなくお蔵に眠らざるをえなかった。エンゲルスが、1886年にその遺稿集の束の中から見つけて、難解さを解きほぐし、自らの学識を加えて『フォイエルバッハ論』として世の中に出した。さらに1923年にはモスクワのマルクス・レーニン研究所・アドラッキーが『マルクス・エンゲルス』全集を刊行するなかで『手稿』そのものを刊行した。日本では。1932年に改造社版『マルクス・エンゲルス全集』において刊行された。(有斐閣新書『古典入門 経済学哲学草稿』1980年刊行)。しかし、当時の日本では治安維持法のもと、こうした本をもっているだけでも犯罪とされた。獄死すらさせられた人もいる。いまでも民主主義を否定するこの悪法に対する反省の弁は、国家からは聞こえてこない。そうした歴史の流れからしたら、この本が研究の対象としても、ごく一部の人にしか理解されてないこと、それもわからなくもない。しかし、現代人はすべからく、電気釜でご飯を炊き、通勤には電車や車を使っているんです。その恩恵にはあずかっているんです。ですから、誰しもがこの内容についても、自由に活発に議論し、その成果を分かち合いたいものです。私などの努力や願いもその点にあるわけですが。今回は、ここまでです。