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カテゴリ:古典/日本文学研究・国内外(比較)文学論
キーワードで言えば「距離」と「編集」である。
本書の前提となる理解として、 ・近代読者の成立は、独りで本を読むという習慣の確立から始まった という公理がある。 言い換えれば、共有される公的なものとしての概念理解ではなく、個の確立を目指した読書の習慣が近代読者をつくった、ということである。 個の確立が目的であるから、一冊の本を読んで複数の人が同じ解釈をする必要はない。というより違っていい。いやむしろ生きてきた歴史が違うのだから解釈も違っていて当然だし、その方が「読み」の世界を豊かにする。同じことは作者と読者の関係についてもいえる。作者の意図を読者が理解する絶対的必然性など、実はどこにもないのである。 つまり、「距離」があってこそ解釈の世界は豊かになる、という立場だ。 たとえば「転石苔生さず」や「犬も歩けば棒にあたる」のような簡単なことわざにさえ、まったく違った複数の解釈の仕方がありうる。 ところで「距離」があるということは、読まれる時に頭の中で「編集」されるということでもある。時代、あるいは翻訳という距離を置いてある作品が評価される時もそうだし、昔読んだ本を読み返す時もそうだ。感想というのは一回限りのもので、本が読まれる状況が異なっている以上、再現性はない。著者流にいえば異本の誕生である。あるいはモンタージュ。つまりイメージのヴァリエーションである。そうしてヴァリエーションに値する作品だけが、古典として後世にのこる。 以上は「嵯峨山登」というフィルターを通して編集された本書の要約。以下は感想。 ・口承文芸は「聞く」文学であった。耳で覚えたものは、その通りに伝えられる。考える前にテキストの保存が優先される。「読む」文学はそうではない。活字という形で保存されているから、余裕がある。考えるゆとりが生まれるのである。 ・日本語は漢字の構成や筆順からしても縦書き、縦読みに向いているという。言われてみれば横書きの本は、学校の教科書や自然科学の本がほとんどである。いわば「解釈」の豊かさを拒絶するものばかりだ。ワープロやパソコンの出現で横
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Last updated
2011.05.05 16:22:42
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