つれづれなるままに―日本一学歴の高い掃除夫だった不具のブログ―

2013/02/23(土)17:25

『地下鉄のザジ』レーモン・クノー:水声社

軽文学/大衆・ユーモア小説(119)

映画の原作。図書館から借りて読んだのはこちら 【送料無料】地下鉄のザジ [ レーモン・クノー ] だが、中公文庫の方が廉価で入手しやすいだろう。 【中古】 地下鉄のザジ / レーモン・クノー 有名な映画の字幕「ケツ食らえ」などは生田耕作氏の翻訳に拠っていた。この新訳はむしろ日本の井上ひさしを髣髴とさせるようなクノーの言葉遊びの面に着目して大胆に意訳している面もある。どちらにもそのよさがあるが、映画はどうか。 原作を読むことによって、映像への翻訳がいかなるものであるかを知った。前半は結構忠実である。冒頭でガブリエルが香水の匂いを嗅ぎまわるシーンに始まって、地下鉄のストに失望するザジ、伝言ゲームで拡大される誤解、「おまえはしゃべるしか能がない」と繰り返すオウム、テーブルを叩き割る大家さん、へんなおじさんとザジの出会い、ジーンズ、おじさんとの食事と奇抜な会話、ガブリエルの職業が明かされるくだり。… ただ映画では原作のスラプスティックな面だけがデフォルメされている感は否めない。確かにそれも本書がフランスでベストセラーになり今なおロングセラーになっている理由のひとつだ。しかし武者小路実篤を180度回転させたような会話の妙だけが本書の魅力ではない。フランス哲学流にいえば実存の不確かさがデフォルメされている点が面白いのだ。 まずザジ。女の子だが男の子に見える。ジーンズをはけば尚更だ。ザジのおじの「大天使」ガブリエルは女装しておカマバーで働いている。本人はその気があることを否定しているが、母親が娘を預けたのは「安心」だと思ったからだ。ガブリエルの妻マルセリーヌは美しい専業主婦かと思ったら、物語の最後で男(装/と)して登場し、ガブリエルの代わりにザジを母親に返している。 まだある。ザジが街中で知り合いになったへんなおじさんは、映画でも「自分が誰だかわからない」と靴屋に漏らす。冗談かもしれないが本を読むとこの御仁が刑事だか警官だか成りすましのコスプレイヤーだか何だかわからない。アイデンティティが揺らいでいるのである。 ザジが来たのはパリだろうか。でも地下鉄はスト中だ。タクシーに乗せてもらったが、見える建物を指してある者は寺院と言いある者は廃兵院と呼ぶ。まさに「ここはどこ? 私は誰?」の世界であり、何を信じていいかわからない現代の様相を鋭く諷刺している。 最後に、本書のカテゴリーを「海外文学」にしようかどうしようか迷ったが、「軽文学」ではないにしろ「ユーモア小説」であることに違いはないので、ここに入れたことをお断りしておく。

続きを読む

このブログでよく読まれている記事

もっと見る

総合記事ランキング

もっと見る