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つれづれなるままに―日本一学歴の高い掃除夫だった不具のブログ―

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古典/日本文学研究・国内外(比較)文学論

2016.12.22
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「世界文学」という名前に弱い。日本の誇る世界最古の長編小説『源氏物語』の評価ですら、海外(欧米)の評価が気になってしまう。こんな体たらくでは著者の言う「中心」=「周縁」の比較文学の視点を、「先進」=「後進」の政治・経済的な力学を、そのまま文学の世界に敷衍したものだ、という批判も説得力をもたぬ。さてどうしたものか。

「中央」「周縁」を認めることは、基準と権威を認めることである。果たして文学の形式に基準はあるのか。著者はあるという立場をとり、英仏の文学を基準に据える。『源氏物語』は明らかにこの基準外の大傑作だが、近代ではない。氏が求めているのはあくまで「近代文学」における形式と内容の問題である。

村上春樹を例に出そう。彼の長編小説は欧米の小説形式を十分消化し、しかもそれを日本的内容として昇華させた傑作だと思うが、註によると、欧米のモノマネのように見えると評している英国の批評家もいるという。日本文学はついに欧米の果実を啄むばかりで、ドストエフスキーに代表されるようなロシアにおける思想小説のような独自性をもって世界を瞠目させなかった、云々。

日本文学が「内向的」だということは認めよう。しかしそれは日記文学以来の伝統であって、近代日本におけるいわゆる自然主義小説や、私小説の勃興に始まったものではない。江戸時代の「小説」は江戸や大坂の様子を生き生きと描き出しているのに東京をそのように描いた近代小説はない、という。だが、漱石が言うように日本の開化は内発的なものではなく外発的なものであり、無理やり文明化させられた都市に文学者が愛着を抱く義理もなかろう

ロシアもブラジルも植民地ではなかったし、日本がさらされていたような欧米列強によるストレスもなかった。日本は文明開化を果たしながら、列強の植民地にならずその一員になろうとした。日清・日露戦争に勝利したことでそれはある程度達成できた。ある程度は。それ以上になると壁があった。見えざる障壁の名を人種差別という。日記文学の伝統はさておくとしても、日本が「内向的」になるのも当然ではないか。

…というような不満を本書に対して感じた。ここから先はいいことを述べよう。たとえば日本の国民的文学作品『坊ちゃん』である。海外ではあまり評判が芳しくなかったが、著者はピカレスク・ロマン(悪漢小説)でありビルディングス・ロマン(教養小説)であるとして本書の評価に新しい光を投げかけている。また、漱石が新しい時代に書かれるべきの新しい表現内容に、従来の小説形式がついていけないという危惧を、欧米の文学者と同時期に示したという。これもまたありがたく頂戴した。

日本の漱石分析は、従来あまりに伝記的内容に頼りすぎていた。すなわち修善寺の大患以前と以降、という具合だ。しかし英国に留学した漱石を、「中央」の欧州と「周縁」の日本との懸隔に悩み、祖国の桎梏に呻吟する知識人、また、さまざまな小説形式の「実験」を通して近代日本文学に貢献した文学者として評価していただいているのはまことに稀有なことである。外国人ゆえというのではなく、なるほどと目から鱗の落ちる思いがした。


世界文学の中の夏目漱石 「形式」という檻






Last updated  2016.12.22 20:58:18
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2015.01.13
作者不詳だけど「男」のモデルは在原業平だといわれている歌物語。
『伊勢物語』が後世に与えた影響は大きく、紫式部の『源氏物語』や井原西鶴の『好色一代男』なんかはモロ。
ただし艶笑譚的な要素はなく、とっても洗練されている。そこが海外の『デカメロン』などとは違うところ。
まあ相聞歌が中心の掌編集だから洗練されてて当然だけど。

かといって恋愛話ばかりでもない。
年とってからの作中の「業平」(とはっきり書かれてはいないが)は「もののあはれ」というか、うつろいゆくものに哀惜の意を表明しているし。
「世の中に~」なんかはその典型。
古今和歌集にも採用されている業平の歌を引用してお話をつくる作者の才覚は見事。
まるで『伊勢物語』が先にあって、そこから古今集に採用されたのではと思ってしまうほどに。

平安時代の作歌のお手本にもされたのがこの本がロングセラーになった理由かもしれないけれど、よくよく注意して読むと毒も含まれている。101段なんかもろ藤原氏批判だし。それでも禁書にならないところが、日本の貴族社会のいいところかもしれない。


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Last updated  2015.01.13 00:32:10
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2014.05.30
普通なら、これはミステリーに分類すべきだろう。しかし高木彬光の『邪馬台国の秘密』同様、中身はかなり学術的である。逡巡の末、ここに入れることにした。

芥川の王朝物といえば誰しも「地獄変」「羅生門」「藪の中」あたりを傑作に挙げるだろう。「往生絵巻」「六の宮の姫君」も文庫本で読めることは読めるが、やはり小粒である。しかし小粒であるからこそ卒業論文にも取り上げやすいので(失礼!)、本書は、早稲田大学第一文学部を卒業した著者の、卒論のテーマをもとにした書誌学的ミステリーなのである。

作家田崎はもちろん架空の人物である。その彼が「六の宮の姫君」について芥川自身から「あれは玉突きでキャッチボールだ」という言葉を聞いた、それがことの発端であった。

芥川はなぜ「六の宮の姫君」を書いたのか。実にこれだけに的を絞って、さまざまな文献が古書店や図書館であさられる。くわしい経緯は省くけれども、よくできた芥川論、菊池論になっている。「無名作家の日記」「身投げ救助策」「父帰る」など、読み返しはしなかったが、懐かしく思ったことであった。

ついでに。
「羅生門」がなぜ「愉快な」小説なのか、これを読んでよくわかった。最後の一文が、最初のテキストでは、下人が京の町へ盗人をはたらきに行く解放感が強調されていた。「偸盗」ではないが一種の悪漢小説を暗示させる結末だったのである。だから「愉快」だったのだ。


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Last updated  2014.05.30 20:27:18
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2013.03.31
1662年5月1日、京の都を大地震が襲いました。現代風に言えば、これはそのときのルポルタージュです。漢字で書くと要石。といっても作者が直接見たものはあまりなく、ほとんどが伝聞によるもの。文体はどことなく方丈記を思わせ、また、仮名草子らしく落ちの狂歌をつけやすいようなエピソードを選んだふしがみられます。

妻と間違えて尼を連れ出し、三行半を突き付けられた男。混乱に乗じて空き巣に入る不届きもの。流言飛語が横行し、なかにはUFOを見たというような人も出てきます。ある神社があまり揺れなかったということで、ご利益を求めてその神社に人々が殺到。のみならず神社に生えている草木すべてむしったり折ったりして持って帰ったので、お上がとうとう頭に来て、懲罰するぞとふれまわったとか。

傑作なのは神社で宣託している氏子たちです。いかにももっともらしく人々に神々のお言葉を伝え、戒めと心構えを説いているのですが、余震が起こるとあわてて神木に登って曰く、「神は昇天された」。

こういうのを読むと、阪神・淡路大震災にしても今度の東日本大震災にしても、江戸時代と違って現代の日本人はよく教育されているなあ、と思わずにはいられませんでした。


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Last updated  2013.03.31 12:52:10
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2013.03.23

【送料無料選択可!】一休ばなし 一休和尚全集 第5巻 (単行本・ムック) / 一休/著 平野宗浄/監修

のっけから恐縮ですが、冒頭に掲げた本は、不具が読んだものではありません。だいいち高い。とても手が出ません。これからご紹介するのは図書館から借りて読んだ「新編日本古典文学全集」64巻によるものです。

一休さんと言えばアニメ講談で有名です。しかしそのもととなる原典『狂雲集』その他に当たったことはありませんでした。

さてこの『一休ばなし』、読んでいてアニメで観たな、講談で読んだな、と思う節が多々あります。というより後世に作られたそれらの作品の方が、おのおのの媒体に沿うように、本作をうまく改作・翻案していると言えましょう。

ではこれがオリジナルかというとそうでもありません。『狂雲集』からの引用はわずかで、あとは巷間の伝承や伝説、『今昔物語』や『荘子』から引っ張ってきたような話、作者の創作などが混じっています。

書かれたのが仮名草子の全盛期ですから、それぞれの挿話に狂歌/道歌の落ちがついています。これがまた巷の一休像にふさわしい出来栄え。基督の死後編まれた福音書が必ずしも伝記的史料として第一級のものではなくてもその人となりを鮮やかに伝えているように、これらくさぐさのお話も、一休禅師の強烈な個性を鮮烈な印象とともに読者の前に広げてみせます。

なるほど、必ずしも時系列に沿ったものではありません。死んだはずの蜷川新左衛門さんが後の挿話で「復活」したりもしています。作者はしかしそんなことには頓着していない様子です。とすれば、巻之一から巻之四までのそれぞれの逸話も、少年時代と末期のことどもを除けば、どこから読んでも多分構わないのでしょう。

一休禅師と言えば奇行と書でよく知られています。そのせいか引導と賛に関するお話がやたら多いのも特徴です。ただ個人的には巻之三「七 沙門ゑぞうを書て一休に見する事」を興味深く読みました。オスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』を連想したからです。

世を捨てて、形を捨てず。鬢髪を切りて、煩悩を切らず。仮に絵像を書きて、己が悪業を被けおく。絵像大きなる迷惑なり。

一休さんは正直な人でした。偽善(禅)をにくんだ人でした。それがあの奇行につながったのかもしれません。


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Last updated  2013.03.25 19:19:29
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2012.07.02
この対談集を初めて読んだのは大学生の頃だったろう。だが当時内容をどれだけ理解できたか疑問である。今だってどれだけ理解できたのかあやふやなのだから。それでも感想はある。唐人の寝言と思って聞いていただければ幸いである。

「要するに、澄んだ明るい眼というのは、何にも考えてない人の眼です」(キーン)

読み返すとこんなところに傍点が振ってある。ヒトラー・ユーゲントを皮肉った箇所だが、本書全体を通しての核となる言葉だと思う。

話はまず日本的なものは何か、というところから始まる。当時不具は様々な日本人論を集めていたから、パラパラとめくってみて古本屋で購入したのだろう。だがそもそもの論の立て方が間違っているとかおかしいという展開になる。まず結論ありきのと問いの立て方ではないかというのである。「特殊性から普遍に至るのではなく、まず具体的な事物から普遍に至れ」という安部公房の言葉には説得力がある。

彼は作家であって学者ではない。だから「あなたの経験主義は木を見て森を見ずですよ」などと忠告するのは、たとえ草葉の陰に向けてであっても、余計なおせっかいと言うものであろう。それが地をはい回る経験主義であろうと、作家は己が体験から出発し、それを昇華させ作品にする。具体的な過程は人それぞれでも、過程そのものは変わらない。太宰だろうと安部だろうと。

『はだしのゲン』でも『戦争論』でも、読者はただそこに真実を発見しさえすればよいのだ。

話がそれた。

反劇的人間とは、そもそもどういう意味だろう。現代ではかつての王様や特権階級のような特別な人が主人公の劇が作りにくくなっている、という意味だろうか。

それとも、そういう劇的な人間の中にも、われわれ大衆と同じ人間的な欠点があるという意味だろうか。

近松の『曽根崎心中』などは、反劇的人間が劇的人間になった芝居の最たるものである、という意味だろうか。

劇的な人間がこの世に存在するというより、時間の経過によって悲劇があらわになり、そこにドラマが現出する、という意味だろうか。

おそらくそのどれもが正解であり、また不正解なのだろう。また、本対談集の中身をこのように「要約」してしまうのはもったいない。ざるで水を掬うが如し、だからである。

百聞は一見如かず。まずは本書を手にとりて読んでみるべし。


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Last updated  2012.07.04 00:35:26
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2011.05.04
キーワードで言えば「距離」「編集」である。
本書の前提となる理解として、
・近代読者の成立は、独りで本を読むという習慣の確立から始まった
という公理がある。
言い換えれば、共有される公的なものとしての概念理解ではなく、個の確立を目指した読書の習慣が近代読者をつくった、ということである。

個の確立が目的であるから、一冊の本を読んで複数の人が同じ解釈をする必要はない。というより違っていい。いやむしろ生きてきた歴史が違うのだから解釈も違っていて当然だし、その方が「読み」の世界を豊かにする。同じことは作者と読者の関係についてもいえる。作者の意図を読者が理解する絶対的必然性など、実はどこにもないのである。
つまり、「距離」があってこそ解釈の世界は豊かになる、という立場だ。

たとえば「転石苔生さず」や「犬も歩けば棒にあたる」のような簡単なことわざにさえ、まったく違った複数の解釈の仕方がありうる。

ところで「距離」があるということは、読まれる時に頭の中で「編集」されるということでもある。時代、あるいは翻訳という距離を置いてある作品が評価される時もそうだし、昔読んだ本を読み返す時もそうだ。感想というのは一回限りのもので、本が読まれる状況が異なっている以上、再現性はない。著者流にいえば異本の誕生である。あるいはモンタージュ。つまりイメージのヴァリエーションである。そうしてヴァリエーションに値する作品だけが、古典として後世にのこる。


以上は「嵯峨山登」というフィルターを通して編集された本書の要約。以下は感想。

・口承文芸は「聞く」文学であった。耳で覚えたものは、その通りに伝えられる。考える前にテキストの保存が優先される。「読む」文学はそうではない。活字という形で保存されているから、余裕がある。考えるゆとりが生まれるのである。

・日本語は漢字の構成や筆順からしても縦書き、縦読みに向いているという。言われてみれば横書きの本は、学校の教科書や自然科学の本がほとんどである。いわば「解釈」の豊かさを拒絶するものばかりだ。ワープロやパソコンの出現で横書き打ち横読みに対する日本人の意識もこれから徐々に変わっていくだろうけれど、上から下に語りかけてくる著者との対話の伝統は、百年たってもそのままであってほしいものである。


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Last updated  2011.05.05 16:22:42
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2010.12.07
文学は人に読まれるためにあります。
というより、文字に書かれたものは人に読まれる可能性があります。
勿論、文字に書かれたものすべてが文学ではありません。
文学の効用はその非実用性・娯楽性にあると言えましょう。

現代においては、印刷され、出版され、書物として流通しない文学はありえません。
口承文芸は寝物語の世界になりました。

印刷術の進歩と識字率の向上。
かつての特権的有識者集団は崩壊し、新しい近代的読者が求めるものは何か。

永遠の生命を獲得する作家とそうでない作家の臨界点。
作家もまた霞を食って生きていくわけではありません。
売れない作家がどうやって生活していくのか。

出版社はいかに在庫品を抱えないようにするのか。
書評の果たす社会的役割について。

文学作品の三要素である言語、ジャンル、文体について。
あるいは著者言うところの<創造的裏切り>としての翻訳について。
ロビンソン・クルーソーやガリバー旅行記の児童文学化について。

本書はそういったもろもろの文学をめぐる社会現象について考察したクセジュ文庫の一冊。
仏蘭西の本なので、そのまま日本の状況に当てはめることはできませんが、参考になります。また、旧ソ連など社会主義国の出版状況等についても言及しているのが特長です。






Last updated  2011.02.12 18:33:50
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2010.10.19
気がつくと、最近フランス文学の紹介ばかりしている。単なる偶然だけれども、そろそろほかの国の小説についても書くために、ここらでひとつの区切りをつけようと思う。

書評、あるいはそれに類したものを書く、というのは多かれ少なかれペダンティック(学識をひけらかす)行為である。書く者はやむにやまれぬ気持ちや、そのままにしておけば記憶の谷間から零れ落ちてしまう読後感を、何とか残そうとしているのだが。

ティボーデは一般の読者は信者であり、批評家は僧侶であるという。なるほど。すると小説の書き手は神ということか。その比喩の是非についてはともかく、作者が創造した世界に説得力がなければ読者はついてこない。それは聖書にも小説にも言えることであり、キリスト教文化圏で近代的小説が発達したのもむべなるかな、である。

小説(ロマン)はまた有象無象のロマネスクから生まれた。ロマネスクとは昨今の日本の出版状況にたとえればハーレクインロマンスであり、またライトノベル的世界である。しかしそのロマネスクの大河から、反ロマネスクとして近代的小説のあり方を提示したのが『ドン・キホーテ』であり『ボヴァリー夫人』であった、という指摘は大変興味深い。

さらに氏によれば、小説は「総括体小説」「受動的小説」「能動的小説」に分かれるという。
簡単に言えば「大河小説」「教養小説」「中短編小説」となるだろうか。

20世紀初頭に書かれたこの本の著者は、まだ『源氏物語』を知らない。にもかかわらず、小説の構成(筋、性格、状況)について、雄弁や劇文学のような緊密な構成は必要条件ではないと言い切っているのは慧眼だと思う。また、近代的読者の源泉が騎士道小説と恋愛小説にあるというのも、また叙事詩的語りこそ「始め、中、終り」をもたぬ小説と同じ範疇に属する文学的形式だ、というさわりも、『源氏物語』の対極に『平家物語』をもつ国の読者に訴えかけるものがある。

残念なことに、不具はフランス文学の愛読者ではない。したがって、この本には近代フランス文学の傑作に関する短い書評があちこちにちりばめられているが、その大半についてあいまいな感想しかもてない。人生は長く、芸術は短しというが、不具の素養などまだまだ付け焼刃であり、真の教養人への道はまだまだ遠いと思う。書評を書く、という行為は当分の間、衒学的なものにならざるを得ないようである。








Last updated  2010.10.30 17:36:17
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2010.09.10
中国人気質を一言でいえば「現実主義」である。小説の登場人物にはモデルがいて、理想郷はどこにもない国ユートピアではなく、至る道こそ細いけれども到達可能な桃源郷として描かれる。裸体画は芸術対象外のポルノしかなく、絵を観念の枠にはめて考察するための額縁もない。山水画には彼方と此方を区別する地平線が描かれない。

王朝の興亡、則ち死と再生の輪廻こそが歴史の現実であった国の民は、精神的支柱としての唯一神も、また対抗馬としての悪魔も必要としなかった。小説は勢い講談になり伝説になりまた紙芝居的になり、そこには共通の物語を楽しむ大衆はいても、作家と対峙し一人孤独に書物に親しむ近代的読者は存在しなかった。おそらく初めて読者を意識して書かれた小説は『金瓶梅』であろうが、作者の意識はついに戯作者の域を出なかった。

繰り返される興亡を目の当たりにして現実主義が生まれ、そこには神も悪魔もいないから人間至上主義になり、小説も絵も現実と地続きのものとして描かれる。善くも悪くもそれが中国の虚構芸術の現実であった。したがって虚構世界のリアリティを描く技法としてのリアリズムは発達せず、リアリズムといえば専ら中国流「現実主義」を指すのが一般的だった。

なるほど『金瓶梅』及び『紅楼夢』は写実主義文学の嚆矢だったかもしれぬ。だがそれは前近代的リアリズムであった。中国近代文学が華開くためには、『阿Q正伝』の作者の登場を待たねばならなかった。
その後継者が老舎である。ただし『猫城記』は悲観的すぎて失敗作だ、と著者は言う。また諷刺が諷刺ではなく当てこすりに終わっていると。するとここにも中国流現実主義の影がみられると、そういうことなのだろうか。もっとも、結果的にはすぐれた諷刺の書であったと、後に認めてはいるのだけれど。

ただひとつ気になるのは、著者が老舎自殺説を支持している点だ。しかしどうせ真相は薮の中なのだから、ここでぶつぶつ異論を述べても、多分何にもならないだろう。今日はこれでおとなしく筆を置くことにする。

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Last updated  2010.09.23 16:51:39
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