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2007/02/03
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カテゴリ:徒然なるままに
二宮金次郎って知ってますか?

「薪を背負って本を読んでいる子どもの銅像」の人です。
でも、いまどきの小学校にはそんな像はないし、40代の私が通っていた小学校にもありませんでした。
そのため、家の手伝いをしつつ、勉学に勤しむ「勤勉」の象徴というイメージまではなんとかあるのですが、それ以上のことは知りません。
まして今の30代20代となると名前も知さえ知らない人の多いのでしょう。

で、どうして「二宮金次郎」なのかというと、またまた一年前に録画した「その時歴史は動いた」で見たからです。

正直いいまして、またまた感動してしまいました。
「感動するようにテレビ局が作ってるの」
といえばそれも事実なんでしょうが、彼の銅像が全国に立てられたのにはそれ相応の理由があったんですね。
やっぱり、ただの「勤勉」な人ではなかったんです。

細かい話を書くと長くなるので、内容を要約しつつコメントしてみたいと思います。

・小田原の農家の出身だった。
・子どものころに酒匂川の氾濫で家も農地も、家族の失った。
・そこから苦労して荒地を耕し、家を再興した。
ここまではよくある「勤勉」の手本のような人です。

・金次郎の働きぶりにを知った小田原藩は、藩の分家の領地である栃木県の「桜町」の経営を依頼する。
・しかし、農家出身である自分では役人も言うことをきかないし、無理だ、と断る。
・再三の依頼に、「十年間口は出さない」という条件で引き受ける。
・桜町に赴任してみると村人は昼間からばくちを打っているという怠けぶり。
・調査の結果、年貢が重すぎてやる気を失っていると判断し、年貢を4分の1に下げる。

ここで彼は、自分が勤勉であるだけでなく、村人全員にも勤勉の重要性を教えなければならない役目になります。
そこで彼が行ったことの例

・年寄りで体力がなく、切り株を掘り起こすことしかできないためみんなから馬鹿にされていた老人を表彰した。
目立たない仕事ではあるが、そのためにみんなが安全に往来でき、役に立っていると褒めた。
・人の三倍働くといわれていた村人に対し、
「そんな調子で一日中働けるわけがない。お前は人に見ていないところでは怠けているのだろう」と叱った。

でもって、村のみんながやる気を出して頑張ったかというとそうも簡単でななかったらしい。
多少はやる気になったものの、「怠け癖」の付いた村人が急に働き者にはならなかった。

・そこで、誰にも何も告げず、村を出て行った。

学園ドラマであれば、態度の改まらない生徒たちに対し、熱血先生が
「お前たちのことはもう知らん!」と言って学校を去っていくシーンだ。

・残された村人たちはこれはまずいということで集まって
「今後はみな力をあわせて一所懸命に働くので、二宮様に戻ってきていただきたい」という上申書を、村の代表達が署名の上領主に送った。

・金次郎は戻りそこから村人たちは見違えるように頑張り、収穫高も倍になった。
・金次郎は村人たちも家に集め勉強会を行い「報恩」や「勤勉」の精神を教えた。

その屋敷は現在も残っており、襖や壁にびっしりといろんな言葉が書き込まれていました。

で、ここまでは「熱血先生」のドラマレベルの話。
金次郎は、勤勉な人から理想の「教育者」になったのです。

なんだか長くなってきたけど、興味のある人だけ続きを読んでくださいね。

・ある日、金次郎はナスの漬物を食べていて異変気付く。
天候不順と日照不足によって作物の生育に影響が出ていると判断した金次郎は、村人たちに「ヒエ」「アワ」などの雑穀を各家5俵を目標に備蓄するように指示。

そしてついに江戸時代最大の天災である「天保の大飢饉」を迎えます。

北日本を中心に日照不足により稲作は壊滅的な被害を受け、全国で数十万人の餓死者を出したという未曾有の飢饉です。

餓死者が続出する中、「桜町」では雑穀の備蓄がものを言い、村人全員餓死せずに済みました。

飢饉の最中、小田原から「小田原が大変だから何とかしてくれ」という急使が来る。
・金次郎は江戸藩邸で家老らに交渉し、藩の「米倉」を開放させることを認めさせる。
とはいえ、米倉の米にも限りがある。
小田原に帰った金次郎は民を「無難」「中難」「極難」の3種類に分け、今日の食べ物にも困っている「極難」の者達を1箇所に集め、一日一合の粥を提供しました。
一方、生活に余裕のある「無難」の者達を集め、あまった食料やお金を提供するように求めました。
当然反対意見が続出。
貧乏人に金を貸したってどうせ返ってこないからいやだ!

「同じ土地に住み、同じ風に吹かれて生きてきたもの達の命が奪われようとしているのである。今こそ、力をあわせて乗り切るときなのだ」
というようなことをいい、彼らを説得。
四千両を集め、各村々に対して援助しました。
そして、小田原藩は一人の餓死者も出さずに、飢饉を乗り切ったということです。

と、ここに来て彼は政治家となりました。
教育が未来に向かっての「希望」を提供するものであるならば、「政治」は未来を見据えて、今すべきことを全力で行うべきものだと思います。
政治においては一瞬のけ判断が明暗を分け、その影響を一番受けるのは弱者である民衆です。
それだけ政治を行うものの責任は重いわけです。

天保の大飢饉のあと、幕府は財政建て直しのため、水野忠邦を中心として「天保の改革」を行います。
そこで、二宮金次郎は幕府に呼ばれ、飢饉で荒廃した農村の再建を託されることになりました。
それから彼は死ぬまで全国の農村を回り、農村の再興に尽力ました。

「人の心さえ荒廃していなければ、世の中にどれだけの荒廃した農地があっても、恐れるに足らず」
正確ではありませんがが、というような言葉を残したらしいです。

農地を耕すのは、農機具ではなく、人の心なんですね。

第二次世界大戦後、銅像は学校から消え去ったのだが、これはアメリカが二宮金次郎を嫌ったわけではありません。
第二次世界大戦の際の物資不足から、その銅像までも供出された結果、終戦時すでに銅像が減っていたそうです。

終戦時、日本の国土は荒廃しきっていいました。
そしてアメリカの占領下で発行された一円紙幣の肖像には、なんと「二宮金次郎」が採用されました。
確かに、焼け跡の灰の中から日本を復興させるには、彼くらいふさわしい人はいなかったに違いありません。

しかしその後、残った金次郎像も撤去されるケースが増えてきました。
「本を読みながら歩くと危険だ」というクレームが原因という話もあります。
でも、大事なのは、本を読みながら薪を背負うという行為ではなく、その「心」の方です。
その「心」を伝えることを避け、単に「危険だ」という理由で銅像を撤去したことが、ある意味で現在の日本を作った原因であるようにも思われてきます。

「どんなに物に満ち足りていようとも、心が荒廃していればそれ以上に恐ろしいことはない」
二宮金次郎の言葉を裏返せばそういうことになるのでしょう。

今の日本が失ってしまったもの、それは「二宮金次郎」的な日本人の心のような気がします。
いまさら小学校に銅像を!とは言いませんが、日本人が忘れたくないものであることは確かだと思います。




















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Last updated  2007/02/04 02:46:14 PM
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