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韓国人学生によるバージニア工科大学での銃乱射
暴力団員による長崎市長の狙撃 イラクでは毎日のように自爆テロ。 いつどこで何が起こるかわからない時代だ。 果たして世の中は良くなっているのだろうか? 確かに便利にもなり、町も住宅もバリアフリー化が進んで、昔より暮らしやすい町になっているに違いない。 少なくとも、器はどんどん便利になり、表面上は「人権」「平等」「平和」が何よりも重んじられている。 にも関わらず、世の中はどんどん物騒になっていく。 戸締りはより厳重に。 知らない人が来たらドアを開けてはいけない。 人を見たら「変質者」と思え、と子どもに教えないといけないのだから悲しい。 いかに着飾ろうとも、世の中はどんどん醜くなっているようにも見える。 「性善説」と「性悪説」というのがある。 もともと人間の本性は「善」なのか「悪」なのか? 日本人というのは、おそらく太古の昔から「性善説」をもとに社会を形成したきたのだろうと思う。 「彼があんな悪いことをするのは、きっとなにかの事情があるのだろう」 そう考える。 日本は「恥」の文化だともいうが、これを言い換えれば、日本人は自分の心の中に「美醜」の規範を持っているということである。 この「美醜」というのが大事だ。 日本人の心の中には、善悪の前に「美醜」というものがあり、醜い行為を「恥」とし、美しい行為を称えた。 物事を判断するとき、この「美醜」は極めて重要である。 ただ、この「美醜」の意識は文字にして教えることが難しい。 それは結局、「風土」が育むものだからだ。 家族のありかた、社会のあり方、 そして、その家族が大事にしているもの、 社会が大事にしているもの それは成長の過程で子ども達に「美醜」の意識をは育んでいく。 お年寄りに席を譲りなさい、という。 その行為は確かに美しいかもしれないが、美しいのはその行為ではなく、その行為に至る「心」なのだ。 人はその行為の中に、その人の美しい「心」を見て称える。 「譲りなさいといわれたから譲った」というのでは美しくない。 「美しい国 日本」 安倍総理がこの言葉を掲げた気持ちも良く分かるのだが、前途は厳しい。 その根幹は間違いなく「教育」である。 給食費を払わない親が大量にいて、給食行政が危機的状況だという。 恥知らずな話だが、そんな親に育てられた子どもはどうなるのか。 食うにも困っているなら分かるが、ほとんどはそうでないらしい。 そういう親に限って、なにか自分の子どもが学校で怪我をしたりすると大騒ぎする。 そもそも日本では、自分の権利を声高に叫んだりすることは「醜」であった。 「有言実行」よりも「無言実行」。 徳は、人知れず行なうからこそ、「徳」なのであって、人に称えられた瞬間「徳」ではなくなる。 人を助けて、名も告げずに去る人は美しい。 「せめてお名前を?」 「いえ、名乗るほどのものではありません。」 というから美しいのだが 「俺、3丁目の山本太郎。電話番号は・・・」 なんて積極的にPRなんてしちゃ、だめなのだ。 美しくない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007/04/20 01:03:36 PM
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