その2中2の頃から、密かに音大へ行きたいと思っていたが、その頃は、音楽をやるのは大学からでいいと思っていた。とにかく、この合わない中学を辞めることしか考えていなかった。 (今となり、何が嫌だったのかはあまり覚えていない、汗) でも、中高一貫だったので、他の高校を受験することは非常に難しかった。 偏差値教育を受けたことのなかった自分は、模試で『偏差値』を知り、驚いた。 とても低かったから...。 これではどこにも行けない!荒れている公立には行きたくない! 中3の夏、家族で大変なバトルした。さあはよく覚えていないのだが...。 将来のことを真剣に話し合った。 ただ学校が嫌いだから辞める!それだけではいけないと言うことで。 音楽高校(以下:音高)があることは、学校案内を読んで知っていた。 問題集を見た所、何とかなりそうな気がしていた。(甘過ぎ) (注:普通、音高に入るためには、少なくとも1年半前から準備するようです) 音高に行く気があったのだが、誰にも言うことはできなかった。 だから、自分1人で音高を見つけて説明会に行き、もうココに行く!と決めてしまっていた。 (自分のことは自分でやるしかない!と、この時から思っていたのだろう) それを4才から習ってきたS先生に言うのはギリギリになってからだった。 面と向かっては言うことが出来ず、8枚もの手紙を書いた(もう覚えていないが、母が覚えている) 手紙が届いてすぐ、先生から母に電話があった。「音楽をやるには10年遅い!」と。 (先生のお嬢さんはヴァイオリンニストで、5才からT音楽教室に通い、G高に入った方なので、 10年遅いということになったのです。つまり先生は教育ママだった) けれど、さあの手紙で先生は心を動かされたようで、 「そこまで言うのなら」と協力して下さった。 そして、「私はあなたに教えられました。考え方を改めさせられました」と。 これが10月の話し。受験まで3ヶ月しかなかった。 この時点から、ピアノが好き!というよりは、音楽が好き!だった。 でも、ピアノしかやってこなかったので、とりあえずピアノで入ることになった。 (つまり最初からピアニストになろうとは思っていなかった。) 今でも忘れない。受験することが決まった直後の11/10、音高の音楽講習会があった。 この合否の結果が、高校に入れるかどうかの目安になる。 小さいころから、ソルフェージュ(聴音と視唱)はやっていた。 弾いた曲は、ベートーヴェンの「月光」、第3楽章。 結果は合格だったが、条件付きだった...。 「ピアノはちょっとねぇ。。。(沈黙)力不足だけど、聴音は満点だったから合格にしました」と言われた。 その後S先生に、「私にはもう見られません。受験、そしてこれから先は、新しい先生につきなさい。」と言われ、 とても悲しかったことを覚えている。 「でも、私は先生のもとでやりたい。」と言った。 結局新しい先生を紹介していただき、この時からK先生の所へ通い出した。 それまでの月謝制とは違い、1レッスンいくらになった。 受験までの3ヶ月、学校へも行かず、必死に練習した。 生まれて初めて、必死で練習した。 周りを驚かせる程の進歩だったらしい 中学の人たちに、学校をやめること、音楽の道へ進むことを話すのには かなりの勇気が必要だった。 自分より断然ピアノの弾ける人の前で、 「自分は音楽をやります」と言うのは苦しかった。 だが、目的を持たず、ただ学校が嫌いだから、合わないからと言ってやめるのは これまた逃げのような気がしてならなかった。 この時から、さあは何事にも目的を持つようになったと思う。 何とか無事、音高に合格した! 他の高校の普通科も受けていて、受かっていたけれど、 行く気なんてなかった。音楽をやるためにはココしかないと思って必死だったから。 晴れて合わない一貫教育の学校を脱出し、好きな音楽を学べることになった。 |