カテゴリ:論考
前回の日記の続きです。
ちなみに「池田清彦」氏を知らない方は,ヤフー「スカウター」で検索してみてください。やってみたら約「25300」件ヒット。ちなみに「西條剛央」は「109」件。 これは,ナメック星到着時の「フリーザ」と「ピッコロ」以上の甚大なる差があるかもしれない。 そのぐらい池田清彦氏は,すごいのである。 本も既に46冊出している。ぼくは3冊。…ま,そんなもんだろう。 なぜ,対談をすることになったかといえば,ぼくが,構造主義科学論を継承発展させたメタ理論(構造構成主義)を体系化したことが,そのきっかけなのである。 池田先生は,『構造構成主義とは何か』の公刊によせて「有り難い」序文を書いてくださった(このブログの左下の「池田清彦絶賛」で内容を確認できる)。 おおげさにいえば,「構造主義科学論」とフィージョンしたぼくは,ネイルと同化した後のピッコロぐらいに戦闘力がアップして,この対談にのぞむことになったのである,といったら言い過ぎだが,対談はなかなかおもしろいものになったとは思う。 以下,内容は,「科学」と「哲学」の違いの話だけど,これって,あまり議論されたのをみたことがないので,自分ではなかなか興味深いやりとりになっているなと思っています(自分でおもしろいと思ったことを話しているので当たり前だけど)。 (なお前回と同様,池田先生の発話部分はほんとうにテープから起こした段階なので,その段階として読んでいただければと思います。 また,言うまでもなくこれから出版する原稿なので,その意味での取り扱いには十分ご留意のほど) ■━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓ 池田:科学はでたらめじゃないんだけれども,盲進するのはだめだよと。だけどふつうの人たちは何を信じて,何を信じないのかという基準を,自分のなかで構築できないから,どうするんだという話になるんだから、そっちもむずかしい問題なんだよね。 西條:「科学をなんで信じてしまうか」というと,電気が付いたり,車が走るからなんですよね。これがものすごい説得力をもっている。これが科学の絶対性という信憑が人々に取り憑く構造ですね。 池田:そりゃそうだよ。飛行機が飛ぶもんなあ(笑)。 西條:そうなんです。圧倒的なんですよね。哲学で空は飛びませんからね(笑)。哲学のありがたみはよくわからない。 池田:哲学は(・・・)それはしょうがないんだけどね。 西條:ただ,たしかに哲学は直接物質的な働きはしないですけど,哲学というのは「考え方の原理」ですから,使う人の認識や考え方のレベルで役立ちますよね。認識論なんていうのは,単純にいえば,世界をどのように捉えるかということですからね。 たとえば,世界の資源が無限であるという世界認識では,資源を無駄遣いしてしまうことになるし,逆に世界の資源は有限なんだという世界認識になれば,このまま使っていたら資源がなくなってしまうから大切に使おうとか,新しく資源を生み出す方法を考えようとするわけですよね。 このように,認識の変容が行動の変化をもたらすという意味では「使える」と思うんですけどね。科学と同じ水準で使える使えないという話をすると,そりゃあ哲学は抽象ですから,空も飛べないし車みたいに移動もできないですけど。 池田:でもやっぱり科学じゃね,「死の恐怖」は救えないよ。結局。それはやっぱり別のものが必要だし。 西條:「生きる意味」とかも科学じゃ無理ですね。それは自分が見出すものですからね。 池田:「科学は生きる意味を与えてくれない」とモリオくんが怒っていたけどあたりまえなんだ(笑)。もともと求めるのが無理だって(笑)。 そんなこと言ってさ,科学が生きる意味を与えてくれないとへんだというのは、それはだって,八百屋だって生きる意味を与えてくれないし,そんなことを言ったらふつうの人はバカじゃないのって思うに決まってるって(笑)。 なんで「科学は生きる意味を与えてくれない」という言説だけがなんかまっとうな言説として通用すること自体が,なんかへんだよね。 西條:フッサールの『超越論的現象学』にも,そういうことが最初のほうで書かれていましたね。その時代でもすでに若者達を中心に,「科学は生きる意味を与えてくれない」なんて同じようなことをいっていたわけですよね。 池田:「科学が生きる意味を与えてくれない」なんて,あたりまえなんだよね。 西條:あと,科学って進歩しますけど,哲学ってあまり進歩しないじゃないですか。百年、二百年前,いや紀元前の人の話がそのまま今でも通用するので。これってなんでかなと思ったんですけど,それは人間が死ぬからですね。 認識の次元が上がっていくにはある程度の時間や経験が必要ですよね。経験が伴わないと,いくら良い哲学書を読んでも全く意味がわかんないじゃないですか。いろいろな経験を重ねたり,問題意識が育ったときに良い哲学書にインスピレーションを受けたりしながら,認識の次元がある程度あがっていくとしても,結局その人は死んじゃいますよね。 もちろん,本を残したりしてくれると参考になるのでありがたいんですけど,後世の人も,その本を最初から読んでも意味がわからないですから,いろいろ経験して,それである時点で読んだときに,「なるほどいいことを言ってくれているな」とそうやってまた認識の階段を上っていっても,やはり死にます。 哲学って,自分の中で構築していくものなんで,なかなか積み上がりにくいですよね。 池田:そう。それをポパーの世界1,世界2,世界3という話でいうと,世界1というのは,現象だよね。世界2というのは自分の内部世界。世界3というのは人類に共通の何かでしょ。そのときに,哲学というのは世界2に圧倒的に依拠していて,世界2は積み重なっていかないから,哲学も積み重なっていかない。いつも子どもはまた生まれるんからね。君がいっていたようにね。 世界3は,積み重なっていくわけだから,積み重なっていったものを,われわれは「知識」としてふつうの人は伝承できないんだけれども,「技術」として伝承しているから、だから科学はどんどん進歩していっているように見える。 この照明つくでしょう。だけど何でつくのか。電気は何でつくるかといわれて,今だれもほとんどのやつは説明できないんだ。ほとんどのやつはテレビがなんでつくのか説明できない。 西條:テレビは未だにわからないです(笑)。 池田:わからないよな(笑)。だれもなんでつくかなんてわからなくて,なんだこりゃと思っている(笑)。だけど,付くというのは技術だからあたりまえだと思っているわけ。この上になにか新しいことができればすごいという話になるけれども。 哲学っていうのは,「技術」がないから。「技術」の部分が何もないから。そこのところは,これをすべて理解したその上にしか積み重なっていかないから。ところが今だって技術をすべて理解してそのうえに全部つぎ込んでいるわけじゃなくて,人はほんのちょっとのしかしてないわけだから。だから全体としては科学は上がるけど,すべての科学的なことを知っているやつはだれもいない。 人間というのは自分が世界のことを理解していると思っているけど,ほとんど世界のことなんかふつうの人は何にも知らない。おれもそうだけど。だけど,なんとなくわかってる気がしている。わかっていることっていうのはさあ,ほんのわずかなことで。 みんなコンピュータとかいろいろやっているけど,自分が知っていることは,本当に世界でこれしか知らないということはあるにしても、それを合わせたところではものすごく膨大な知識が積み重なっているけれど,そんな知識だれも知らないんだもん。 哲学というのはそれを1人でやらなきゃいけないから,累積が不可能なんだ。累積した後から始めるわけにはいかないから。累積するのにすごい時間がかかるんだ。そしたらもう無理だよな。だからちっとも進歩しない。 西條:本に本当に妥当なことが書かれてても,問題意識が育ってなかったり,経験がないと,その本を読んでも意味がわからないんですよね。結局,心的な構造のところにかかってくるので,やっぱり積み上がりにくい,積み上がらないとまでは言わないですけど,積み上がりにくいですよね。 池田:そりゃそうだよ,積み上がりにくい。だってテレビは買ってくれば,付ければ付くんだけど,それには何にも必要ねえんだから。 西條:そうなんです。経験とか必要なくて付けられますからね。ボタンを押せばつけられますから。 池田:そうそう(笑)。だけど哲学はそうはいかないからね。だから確かに役に立たないっていえば,役に立たないんだけどね。 ■━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2005/08/02 10:39:00 PM
[論考] カテゴリの最新記事
|
|