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カテゴリ:論考
時を遡ること2005年1月25日。
たまたまテレビをつけると,ずっと前の『水戸黄門』がやっていた。僕が生まれる前ぐらいだろうか,あるいは幼い頃のか定かではないが相当古いのは確かだ。 途中からみたので,最初の方はよくわからないが,「型」にはまっていなくておもしろかった。 水戸のご老公は,自分の姿をやたら隠す。まさに隠密の旅といった風情である。 「助さん,角さん,私のことがばれてもよくない。私は近くの寺に隠れているから,あいつらをやっつけて『逃げなさい』」とのたまう。 もうひとりの付き人の女性も「私も」と参戦表明。続いてはちべいも「おれも」と行こうとした途端,ご老公は「おまえがいっても邪魔になるだけだから,こっちにきなさい!」と鋭く「ツッコミ」を入れる。 人間模様も複雑。 その回の主人公的存在の「男」が登場。一般市民だがなかなか腕が立つ。 「男」には女房がいる。その女房の父親は,ならずもの達のボスの参謀をしている。 ならずものたちは「しめしがつかない」といって(なぜか)その男を殺そうとしている。 一行のなかでは,弥七がメイン。弥七はならずもの達に普通にやられて怪我する。 それを手術してくれたたのは隣の部屋にいたきれいな女性。 実は,その女性は,「男」の昔の女だった。 その昔の女は,「男」の女房がいる長屋を訪ねていく。 というか,弥七が連れて行く。 余計なことをする弥七。 「三角関係」となり,ちょっとした「修羅場」。 息をつかせぬ展開。 そのとき,「男」の住んでいる長屋の隣の家では「お産の真っ最中」という状況であった。 難産となり,このままでは子どもか母親のどちらかが死んでしまう。 「男」は元蘭学を学んだ医者だった。 そして昔の女はその助手だった。だから弥七の怪我を手術もできたのだ。 その女が「男」に手術するよう進める。 「男」は,「腕が鈍っているので,無理だ!」と断る。 しかし弥七に,「あんたなんで長崎でご禁制の薬を使ってまでひとを救おうとしたんだい。黙ってみてられなかったからだろう。それなのにあんたその人だけは黙ってみてるのか」といわれ,脂汗をかきながら手術を決断。 最初にいた産婆を突き飛ばしてとどかす。 現女房は「見ててやる!」と手術の様子を見守る(というよりも女をにらんでいる)。 手術が始まると「男」と前の女(助手)が良い連携を見せる。 その連携の良さを目の当たりにした女房は「負けた・・・」とばかりに打ちのめされ,泣き崩れんばかりに自分の家に戻る。 そんなときにならずもののボスから「男」に果たし状が届く。 しかし,「男」は手術中だったので女房が受け取る。 女房は,父親(ならずものの参謀)を差し違えて自分が死ねば,ならずもの達は「男」(旦那)を狙わないだろうと考え,自分がかわりにいくことを決意。 弥七も一緒に付いて行く。 手術成功後,「男」は自分の家に戻ると弥七の風車と一緒に部屋に置いてあった果たし状を見つける。 その様子を,はちべい達がたまたま見つける。 浜辺ではならずものたちが数十人待っている。 そこに弥七と女がたどり着く。 女はすかさず父親(ならずものの参謀)を殺そうとする。実の父親を殺すのにためらいは一切ないが,苦戦。 すかさず弥七も参戦。怪我のため片手しか使えないため片手で斬りまくるが,さすがに悪党,頭数が多し。 そしてその殺陣はレベル高し。 香取君の新撰組をみてしまった現代っ子にとってはド迫力。 そこに「男」が長屋の人々とともに浜辺にたどり着き,参戦。 その数分後ご老公,助さん,角さん到着。 いつもの通り悪党どもを痛めつけるのかと思いきや,本気で止めに入る助さん,角さん。 しかも台詞は「昼真っから何をやってるんだ。役人を呼ぶぞ!」。平和主義で権威(役人)主義。 その後のやりとり。 悪党のボス「へん,この辺でおれを裁ける役人がいたら呼んでこい!」。 付き人の女「なんですって,このお方をどなたと心得る!」 ご老公「(それ以上いうのは)やめなさい」 付き人の女「いいえ,やめません,こいつらはいってやらなきゃわからないんです。この方はさきの副将軍水戸光圀様ですよ!」。 明らかに副将軍に逆らっている。 悪党のボス「へん,何を寝ぼけたこといってやがる,そんなわけないだろうが!」っていいながら,ご老公がなにげに?腰にぶらさげている印籠を見つける。 たじろいで,平服。 争いは収まる。 しかし,男と女の戦いは収まらない。 波打ち際に立つ女房。 女房「あんたその女に惚れてるんだろ!,どこへでもいっちまいな!」 男「ああ,惚れている!」 お,逆ギレ? と思いきや,「惚れた女が10人束になってこようが,おれの女房はお前だけだ!」と続く。 女房「勝手いってんじゃないよ!」 男「女房にぐらい勝手いわせろ!!」 その勢いに心打たれた女房は「ばかばかばか」とたたきながら抱きつく。アンビバレントタイプ。 抱きしめ合う二人。 それを見守っていた弥七が「その人はね,あんた達のために自分を殺そうとしたんだ」と解説する。名ぜりふが続く。 そのやりとりを目の当たりにしていた昔の女(きれいな女性)は悲しげな表情。 すっかり忘れていたけど,その間悪党どもはずっと平服していた。ご老公たちに至ってはすっかり腰を落ち着けて座っちゃってる。 ご老公「よかったよかった。さて,悪党ども・・・」と説教をし始めたところ,悪党のボスは,突然刀を抜き,隣にいた女房の父親(参謀)を刺し殺す。即死。 そろいもそろって現代の水戸黄門ではやってはいけない「タブー」を平気で犯す。 悪党のボス「目が覚めました。あっしは,この男にだまされていたんでさあ」と,「おいおい,もっとましなウソ付けよ!」とツッコミたくなる「いいわけ」をしだす。 女房が「何をする!」といってボスを殺そうとするが,男が止める。 男が「義理の父の敵だ。俺が殺る」といって鎌で殺そうとするが,助さんに止められる。 そりゃそうだ。 ご老公が「そんな男の血で自分をけがしてはいけない」といい,後日上から裁かせるといって諭す。 最後まで前の女を気遣っていたご老公に対して,前の女は「長崎に帰ります」としっかり生きていくことを伝える。 「それじゃその言葉を信じてますよ」といって立ち去るご老公。 おわり ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 水戸黄門ってこんなにすごかったんだな~。 ・ ・ ・ そうか,わかったぞ! 何がって? 自分がこの昔の水戸黄門がとても気になった理由。 僕らが知っている『水戸黄門』は,以前から今知っている『水戸黄門』のままだと思いこんでいたけど,そんなことはないっていう当たり前のことがわかって,ちょっと感動したのである。 現在流通している水戸黄門像は,恣意的なものであり,「本来の水戸黄門」などというものではない。 言い換えると,『水戸黄門』という番組は「モノ」ではなく「コト」であったという当たり前のことに気付いたのである。 この,あらゆる「モノ」が「コト」であるという認識は,池田清彦の思想に通底する原理の1つである。 しかし,原理的に全て「コト」なんだとわかっても,すべてが「コト」にみえるわけではない。 言語もそう。原理的には「正しい日本語」なんてない。日本語も「コト」だから,どんどん変わっていく。 「正しい日本語として成立していない」なんて得意気に説教して歩いている人は,このことがまるでわかっちゃいないと思っていて間違いない。 原理的に「正しい言語」なんて存在しないが,原理的に「正しい言語の捉え方」はありえるのだ(それがソシュールの記号学のエッセンスに他ならない)。 それでも,「便利だから」というただ1つの理由から,小学校で「日本語」を教えるのには意味がある。 しかし,それは「正しいから」教えるのではない。 そこのところを根本的に勘違いしている人が多いように見受けられる。 生物もそう。原理的には「本来あるべき生物の姿」なんてものはない。生物も「コト」だから。 池田清彦氏がいうように,「外来種は撲滅すべきだ」なんていうひとは,自分自身(人間)も外来種だってことをまるでわかっちゃいない。 そういう人はまず外来種である自分の腹を切ってから上記のような発言をする必要があろう。 「自分」だってそう。「私」も「モノ」じゃなくて「コト」なんだなあ,って当たり前のことにあるとき気付いた。 そんなことをいうと,「いや,私の身体は物質でできているよ」という声が聞こえてきそうだ。 もちろん,「身体」は「物質」でできている。 しかし,「物質」を媒介としていることはそれが固定的な「モノ」であることを意味しない。 「身体」とは「循環している動的システム」である。細胞は入れ替わる。やはり「コト」なのである。「コト」だから「食ったり出したり」しなければいけないのである。 構造構成主義的にムズカシクいうと,「私」とは身体という物質を媒介としながら世界に立ち現れた広義の構造なのである(ムズカシイ)。 ただ,「私」の場合,自分自身を認識できる「コト」である点が,他の「コト」と異なる。 これが,人間を「自分の人生」や「自分の存在意義」「アイデンティティ」や「死んだらどうなるか」なんてヘンなことを考える動物たらしめている唯一の特徴(構造)なのである。 それ以外は,他の「コト」と何ら変わりないのだが,この特徴がいろいろなドラマを生み出す「源」となっているのである。 こんな風に,逐一の事柄にそれを当てはめて「モノ」だと思っているものを,「コト」として捉えられるようになることによって,新たにひらけてくる「視界」がある。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2005/08/02 10:41:35 PM
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