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西條剛央のブログ:構造構成主義

西條剛央のブログ:構造構成主義

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西條剛央

西條剛央

2005/11/11
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カテゴリ:構造構成主義
つづきです。

<以下,田中ひろさんへの回答>

たいへん興味深く一連の議論を読ませていただいています。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━◆
それを理解するのには,佐藤氏の「究極的な価値」と「究極以前の価値」という概念を導入する必要があります。
究極的な価値とは,人類であり,平和であり,愛です。これらの価値を直接的に実現しようとするのが,戦争を放棄しようとした現行憲法です。

一方,究極以前の価値とは,究極的な価値を実現するための媒介項です。究極的な価値は,究極以前の価値を通してのみ実現できると考えます。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━◆
なるほど!と思いました。

「究極な価値」という「目的」をそのまま「手段」と直結させているのが現行憲法ということですね。つまり「目的」=「手段」となっている。

「究極以前の価値」とは,「究極的な価値」という「目的」を実現する「手段」は「方法」として,目的と明確に分離した方が,機能的だと考える方といえるかもしれませんね。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━◆
つまり,
自衛権を持ち,抑止力を有する,
国連安保理に基づき,海外活動も行う,
という究極以前の価値を求めることにより,
究極的な価値である,平和や愛を求める,
ということだと思います。

もちろん集団的自衛権に付随する問題は多々ありますし,それによって生じる危険もありますが,価値を多元的に捉えると,2者は結局,同じものを目指していると考えられる気がします。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━◆
素晴らしいです。
これは,とても上手に,【現象学的還元】という【思考法】を使って,その違いを生み出している構造を抽出することで,一見まったく相反するようにみえる立場も,その目的は同じであることを言い当ていますね。

その意味で,「哲学とはどのように役立つか」をまさに,体現している素晴らしい論だと思います!





<以下,長尾哲也さんへの回答>

■━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

これは第二次大戦とイラク戦争に共通していえることで、
「アジアの平和のため」「中東の平和のため」の戦争は
止むを得ないという理屈があります。
それに対して、話し合いによる解決(広義には経済制裁も含めて)がいかに実効力を伴うかという「言葉の問題」がありますよね。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━◆◆
とても大事な問題提起のように思われます。

哲学とは,考え方の理路(思考法)だとすると,力による解決に到ろうとする(行動)をもたらす,思考枠組みもあるでしょうし,そうではない行動をもたらす思考枠組みもあるいでしょう。

たとえば,真実は1つという客観主義的な認識論の危険な点は,自分と異なる正義を掲げる相手と分かり合える理路が閉ざされていることにあります。真実という席は1つであり,そこには自分が座っているのですから,相手が座っていると主張している真実の座は間違っているということになります。すると,話にならないからやっつけろとなる。

また「妥当な考えなんて何もないのさ」といった何でもアリの思考枠組みになると,正しいものなんて何もないからといって「勝てば官軍」などといってやはり「暴力」に訴えることになります。

つまり,客観主義的な認識論(認識形式)でも,相対主義を帰結とする認識形式でも,けっきょくその結果いきつく「行動」という点では同じになるのです。

ということで,そのどちらにも到らない認識形式が必要だと僕は考えています(それが構造構成主義であり,これは『構造構成主義とは何か』の3,4章にて詳述していますが,これ以上語ると相当長くなるので,ここではやめておきます)。

これは世界を捉える根本的な視座となる認識論【抽象】が,現実世界の争いといった【具体的問題】を引き起こしたりするという意味では,哲学の危険性と有効性を示すものになっていると思います。

実は,哲学的思考法とは,一つの考え方(方法)なので,それ自体に善悪ということはありません。それは使い方によって,危険なものにもなるし,有効なものにもなるのです。そして,哲学の危険性を低減するのもまた哲学にしかできないのだと,思います。

話を戻すと,「暴力」という行動に直結せずに,建設的対話を続けるという行動を導くような形式の認識論が必要だと思います。



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一応書いておきますが、私がたびたび思想家を挙げて、
言葉にこだわる理由は留学体験によるものが多いということです。名前の出ている哲学者についても多国の学生たちの間で議論がありました。皮膚感覚の問題として考えています。ナショナリズムについても然りです。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━◆◆
御意です。
長尾さんは皮膚感覚で考えておられることは十分伝わってきております(^_^)。思想家の名前を挙げること自体は,なんら悪いことではないですよね。僕も挙げていますし。

問題は,“何のために偉い思想家の名前を挙げるか”ですから。

思想家を楯とするために挙げる,議論を煙に巻くために挙げる,自分が物知りであることを示すために挙げる,批判を目的として挙げる。学界においても確かにそういうひともいます。

しかし,自分の考えを根拠づけるツールとして挙げたり,議論を正確にするために挙げたり,建設的な議論をするために挙げる人もいますよね。できれば,僕もこちら側でありたいと思っています。





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Last updated  2005/12/07 04:53:27 PM


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