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西條剛央のブログ:構造構成主義

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西條剛央

西條剛央

2006/07/16
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カテゴリ:雑感
「露鵬を3日間出場停止=カメラマン殴打で相撲協会」

ということらしい。

拙著『母子間の抱きの人間科学的研究』に竹内氏の「怒り」に言及しながら以下のように書いたことがある。
母子間の抱きの人間科学的研究

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進行形としての現象と完了形としての記述
 竹内(2001)は,認知心理学者の佐伯胖と対談した際に,新劇の演出家として演技の基底を探っているうちに,「心理学などで扱われる『感情』と呼ばれるものが,どうも私には腑に落ちない」と思うようになったと,次のような疑問を呈した。相手をいやな奴と思って,つきとばし,消しにかかっているときは,「全身で相手に跳びかかり働きかけているのであって,いわゆる「怒り」の感情なんてものを,その時点で感じている余裕なんてない」という。そして「『悲しみ』とか『怒り』とかいう名付けも,身の内の激しい動きに距離を取り,対象化しうる状態に至った時,初めて行うことができる」として,「根源的な『からだの動き』そのものには,まだ名をつけることができない」ことを鋭く指摘している。言語化できたとしたら,それはまさに,今,全身で探している最中ではなく,それと一定の距離を保てたときなのである。これは従来の心理学のあり方全体に一石を投じる本質的観点といえよう。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

そう露鵬は「怒って殴った」のではないのだ。

ジダンも「怒ったから頭突きした」のではないはずだ。

マテラッツィをいやな奴と思って,消しにかかっているときは,いわゆる「怒り」の感情なんてものを,その時点で感じている余裕なんてなかったはずだ。

だからこういうときに「怒りを抑えるべき」なんていう正論はほとんど意味をなさない。

なぜかおわかりだろう。

彼らは“怒ってそうしたのではない”からだ。


「だからといって,露鵬が素人を殴ったのは良くないだろう」

それはそうだ。

じゃあどうすればよかったのか?

露鵬は我慢したのがよくなかったのである。

そこまでアタマにきることを言われたなら,ジダンを見習って,「ごっつあんです!」といいながら千代大海にアタマを下げたフリをして頭突きの一つでもかましてやればよかったのである。



よく暴力は許されることじゃないと人はいう。

では,言葉の暴力は許されることなのだろうか?

物理的な作用じゃないからマシという意見をーー心理学者だからというわけじゃなく一人の人間としてーー首肯することは僕にはできない。

「自分の大事な人を侮蔑されるぐらいなら,自分が殴られた方がよっぽどマシだ」

そう思ったことがあるひとは少なくないだろう。

これはときに言葉の暴力の方が,身体的な暴力より,暴力的であることを意味している。


日本において物理的な暴力によって亡くなった方はどのぐらいいるのかわからない。それは痛ましいことだが,おそらくは言葉の暴力によって亡くなった人の方が多いだろう。


年間殺害された人はどれだけいるのかしらないが,日本の年間自殺者は3万人以上いる。これはイラク戦争はじまっていらいのイラクでの死者に匹敵する数字だそうだ。


ある専門家の人が「自殺者のほとんどは他殺です」と言っていた。

そう言葉等々によって誰かがその人を死に追いやっているという意味では他殺なのだ。


何が言いたいのか?

物理的な暴力が最も悪いという前提はまったくもってオカシイってことだ。

何かがネジくれている。

そんなこと言っているからいつまでたってもイジメは減らないのだ。


親や家族や友達,恋人を侮蔑されて黙っている人を僕は立派だとは思わない。

もし学校で,そういう我慢ならないことを言われたら,殴り掛かっていいと思う。気づいたら殴り掛かってたというようにあって欲しいと思う。

「言ってよいことと悪いことがあるってことをそいつに分からせてやれ」

そういってあげたいぐらいだ。

言葉の暴力に対して,身体的な暴力をふるった人を擁護してあげる先生も増えてほしいと思う。

擁護というか,「それらは同じ重みがある」って前提で対処して欲しいと思う。


そういうことをしないと,いじめた本人は「おれは何も悪いことはやっていない」と居直り,そういう前提を悪用して,しょうもない人間であり続けることになるし,いじめられた人は我慢ならなくなって,ある日突然切れて相手を殺すか,痛みを無くすために自分を殺すことになる。

いずれにしてもロクなことは起こらないのだ。


世の中,一見倫理的な言明がいかに歪みを生み出しているのか,倫理観の強いひとほどわかっちゃいない。

そりゃそうだ。

倫理観の強いひとは,たんに一般的な「倫理」を「正しいもの」として盲信しているだけなのだから,自らがディペンドしているその倫理的前提それ自体がおかしいなんてちっとも気づいていないのだから。


そういう意味で,ジダンは最大の視聴率を生み出す,W杯の決勝という場において,優勝杯よりも大事なものがあるということを身を以て示したわけで,立派という他ないと僕は思う。

願わくばそういう本物の男になりたいものだ。





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Last updated  2006/07/22 09:25:29 PM
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