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西條剛央のブログ:構造構成主義

西條剛央のブログ:構造構成主義

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西條剛央

西條剛央

2007/06/30
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カテゴリ:雑感
久しぶりに役に立たない真夜中の授業を開講しましょう。

今回は第三回目かな。

第一回は以下(「季節再考」)
http://plaza.rakuten.co.jp/saijotakeo0725/diary/200607240000/

第二回は以下(「亀田事件を巡る信念対立とその解消法」)
http://plaza.rakuten.co.jp/saijotakeo0725/diary/200608090001/



今日は,「なぜいい加減で適当なのが良いのか?」ってことについて考えてみようと思います。


これは関心相関性の概念のリバースサイド(裏側)の機能に関係します。

関心相関性という概念は,構造構成主義の中核概念です。

これは,僕らは,身体や関心や目的といったものと相関的に,存在や価値,意味といったものを受け取るということを言い当てる概念です。

何らかの価値は,僕らの関心と相関的に立ち現れる。喉が渇いていれば水が価値を帯びるし,死にかけていたら水たまりですら飲料水として立ち現れるかもしれないよね。

屋根にあがろうとおもったら脚立が重要な価値を帯びるだろうし,寝ようと思ったらベッドや布団が価値を帯びるよね。

だから,僕らは何かを選択するとき(少なくとも反省的に言えば),そうした関心と相関的に価値を見出したものを選択するわけだ。

この「表」の使い方は,効率よい選択とツールの合理的な使用を可能とするのです。

当たり前だけども,手段がいつの間にか目的になってしまうことはいくらでもあるため,こういうリフレクション(反省)装置は,やはり必要なのだ。

ここまでは,何度も議論してきたことで,これは関心相関性の「表」の機能なのです。



しかし,表のサイドと同ぐらい,裏の機能は大事になるのです。

裏の機能とは何か?

ここで,今日のテーマに戻ります(というかここまではそのための前置きですね)。

構造構成主義は,「いい加減の思想」であり「適当の思想」でもあります。では,なぜ,いい加減がいいのでしょうか? なぜ適当がいいのでしょうか? 


言い換えてみましょう。


斎藤清二先生は『エマージェンス人間科学』の論考で,「マジになりすぎない」ことが重要だといいました。なぜ「マジになりすぎない」ことが重要なのでしょうか?

http://www.amazon.co.jp/エマージェンス人間科学?理論・方法・実践とその間から-西條-剛央/dp/4762825360/ref=sr_1_6/250-8606300-3637862?ie=UTF8&s=books&qid=1185873656&sr=1-6


池田清彦先生は最新エッセイ集『ゼフィルスの卵』のあとがき「完璧は滅びへの近道である」と喝破しましたが,なぜ「完璧は滅びへの近道」なのでしょうか? 

http://www.amazon.co.jp/ゼフィル?スの卵-池田-清彦/dp/4487801842/ref=sr_1_1/250-8606300-3637862?ie=UTF8&s=books&qid=1185873702&sr=1-1


(マジはかっこ悪いとか,完璧なんて無理だからとか,完璧主義は身を滅ぼすなんて誰でも分かるようなことをわざわざいうわけがありません。)



この問いは関心相関性の裏の機能と深く関わります。

これは盲点の盲点といってもいいから,その分意識化しておくことは大事になるのです。

裏の機能とは何なのでしょうか?













いきなり答えをいってしまうと,その裏の機能とは,「人間は特定の観点からしか,是非を判断できない」ということです。

なーんだ,そんな当たり前のこと,知ってるよと思うよね。


ですが,この意味は,さっきの問いと関連して考えないと,深く受け取ることができないのです。


僕らはどんなにあがいても,どんなに頭がよくても,ありったけの知識を詰め込んでも,どんなに多角的に考えようとしても,特定の観点からしか考えられない。

いろいろな本を読んで,頭がよい人があつまって,多角的に判断すれば妥当な判断ができるんじゃないか,と思うかもしれません。

そうですね。一人で本も読まずに考えているよりはマシにはなるでしょうね。

しかし,良識者があつまって,何らかの決定をする場合でも,決定をする以上は,特定の観点からの決定にならざるをえないのです。この限界は原理的に避けることができないのです。

たとえば今,総合的,多角的に考えて,論文をたくさん書いた方がいいとか,運動した方がいいとか,これは健康に良いから食べさせたらいいとか,こういう教育をした方がいいとか,「わかった」とするよね。


そしたらどうするか?

マジメな人は,それを徹底するかもしれない。

それ以外のことは極力削って,自分が正しいと思うことにやることを絞り込む。その目的に照らして,生活スタイルも選択して,効率化,能率化を図る。

それが滅びへの近道になるかもしれないなんて,夢にも思わないだろうね。

なんたって,多角的総合的に考えた結果導き出した「正解」なんだから,それさえやっていれば間違いはない,って思うだろうから。



なぜ,最良の判断が滅びへの近道になるのか?

それはさっき言ったように「人間は特定の観点からしか,是非を判断できない」からなんです。

僕らがそのときもっている情報の中で,最良の判断をしたと思っても,それは間違っているかもしれない。原理上,その可能性は常に残る。

いってみれば,僕らの思考によって合理的に導き出した答えなんて,1%程度の情報でしかないってことなんだ。僕らは僕らの観点からしかみえない。どんなに見渡しても,365度,24時間みることはできない。僕らが得た情報の中で,僕らの有限の頭脳の中で,考えることしかできない。しかも「合理的判断」なんて,「直感的判断」とか「流れに任せた判断」とか,そういういろいろな判断があるなかの一つのモードでしかない。



わかりやすく教育ママを例に考えてみよう。

教育ママは,自分の経験や後悔や反省も踏まえて,こういう教育が最善だと判断して,早期教育するわけだよね。

それが結果として妥当な判断だったらまだマシだよね。でも,間違っていたら最悪だよね。

みんなにとってよくても,その子にとってはよくないかもしれない。その正否はやってみないとわからない。

早期教育で簡単にできるのは算数。なぜなら,算数は「形式」だから,それは覚えれば小さい子でもできるようになる。そしてドリルとか解かせれば,どんどんできるようになる。頭が良くなるようにみえる。

でも,アメリカの研究かなんかで,算数(数学)の早期教育をしても,大人になったとき全然意味がなかった(ふつうに育った人との差異が確認できなかった)というのがあった。数学者になったひとは一人もいなかったとか。

それって端的にいって無駄だったってことだよね。

子どもの時間が無限にあるなら,それもいいかもしれない。

でも,問題は子ども時代は有限だってことだ。

「自分の頭で考えなさい」「考えるのはいいことだ」「よーく考えるように」なんてよく言われてるみたいだけど,そもそも人間はなぜ考えるのだろう?

考えろといわれて考えられるようなことは,問題集でも渡されたときぐらいのものだろう。そんなことはコンピュータができる以上の「考える」ではないようにも思う。

では,僕らは,いつ,どういうときに考えるのか?

それは疑問をもったときだよね。

これはなんでだろう?

どうしてこうなるんだろう?

どうしてこんなことが起こってしまうのだろう?

どうすればいいのだろう?



じゃあ,いつ,どういうときに疑問を持つのか?

それは何かを感じたときだよね。

心が痛い,違和感がある,おかしい,おもしろい,すごいetc.


どうしてこうなるんだろう?

どうしてこんなことが起こってしまうのだろう?

どうすればいいのだろう?


そう感じることが最初にある。

感受性なくして,思考は育たないってことなんだ。

感じるから疑問を持ち,考えるようになる。

感性が育てば,必要に応じて,勝手に考えるってことだ。

考えろといわれなくたって人間は考えるのだ。

だから,まずは感性を育てることが大事だと僕は思う。













けどね,ここで言いたいこととは,こういう判断すら一つの観点からの判断ですらない,ということなんだ。

感受性だけ育てればいいと偏ってしまうと,他の何かがするっと抜け落ちてしまうかもしれない。

最近は,菌は絶対悪かのように見なされていて,殺菌消毒の徹底とかいっているけど,それも生物としての抗体を弱めてしまうかもしれない。

「だから,バランスが大事なのだ」

なるほどバランスね。そうね。でも,バランスって何かと何かのバランスを取るわけだから,それも一つの判断だよね。

バランスを取ろうとしている何かと何かの外側でするっと抜け落ちていることもあるかもしれないよね。




え,じゃあ,どうすればいいかですって?


だから,いい加減がいいってわけさ。


いい加減で,適当だと,「とりあえず,これが良さそうだからやってみよう」とは思うだろうけど,そればかりってことにはならない。

いい加減だから,自然に何にも意図しない時間がでてくる。

ぼーっとすごしたり,一見すると無駄としかいいようがない時間を過ごしたり,余計なことをやってみたりすることができる。目的とあわない(負の相関を示す)ことをときにやってみたりすることもできる。

そしてそういう意図しない時空間に,僕らの是非の判断を超えた何かがあるかもしれない。そこで,欠けているものが自然に補われるかもしれないし,結果として意識できる何かと意識の範疇外の何かのバランスが保たれるかもしれない。

「不合理の理」「無用の用」とは,きっとこういうことなんです。



僕は,元来意志が弱くて,計画通り物事が進まないし,何かを徹底してするということもあまりできない。

そんな自分に嫌気がさすことも多々ある。

でも,それでも,それなりにやれていることが不思議でもあった。計画通りなんて一つもできたことがないのに,なぜそれなりにやれているのか? いい加減だからか? いい加減だからか!


そんなことを考えているうちに,最近では、いい加減で,適当なのも悪くないどころか,それが必要な理由が深くわかった気がした。



だからって,なんでもグズグズ進めればいいってことではない。

それは関心相関性の「裏」に偏った考えだ。それだと何も達成することはできないだろう。

いい加減もいい加減にしなきゃいけない。

だからそうじゃなくて,ときには「表」を使って,目的にめがけて効率よくツールを選択して,生活スタイルを特化させようとすることも重要だろうし,そうしながらも「裏」の視点も忘れないようにして,適当に,いい加減にぼちぼちやっていればいいかもね,ってことなのさ。

当たり前だよね。

だからこそこれが「自然」なんだと僕は思う。



これで,今回の真夜中の役に立たない授業を終わります。

ガッコウで教えてくれないことを学べてよかったね。

またいつか(いい加減)。






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Last updated  2007/08/02 02:28:34 AM
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