2007/11/14(水)21:09
文章化する難しさの理由
最近、相当な難問に挑んでいる。
これは僕が解かなければ、いつまでたっても形態(装い)を変えた同根の問題に悩み続けることになるだろう
と勝手に思い定めて取り組んでいる。
しかし、これはなかなか難しい。
その難しさは、もちろん難問そのものの難しさにも相関しているのだが、自分の中ではわかっているといえばわかっているのであり、それを分かりやすくコトバにすることによる難しさの方が大きい。
「うーん、難しい」と何度もメモ書きを眺めているうちに、ふいにこの種の難しさがどこからやってくるかわかった。
それは「経験」という時間と空間を内包する多次元のものを、「文章」という二次元の、無時間的かつ直線的構造に落とし込まなければならない難しさなのだ。
「わかっている」というのは「経験」である。
その「経験」を他者が読んでも「わかる」ような「文章」にしたためなければならない。
いわば、自分の「経験」と同型的な「経験」を、他者が「再構成」できるような設計図としての「文章」を書かなければならない、という難しさなのだ。
図式的に示せば
「わかるという多元的経験」→「自分が書く」→「二次元構造(文章)」→「他者が読む」→「わかるという多元的経験の再構成」
という感じだろうか。
「次元を減らす」ということは、「制約を増やす」ということ他ならない。
したがって、それがややこしい問題であればあるほど、次元を減らした上で、「経験」と同型的なことを表現するということは、コトバと論理という便利なツールを駆使しても、なかなか至難の業なのだ(無論、これは同じ営為に従事する誰にでも当てはまる)。
道理で、難しいわけだ。
がんばろうっと。