西條剛央のブログ:構造構成主義

2008/04/15(火)15:00

執筆行為論

質的研究(26)

最近、忙しかったということもあるのだが、元来の筆の重さが出て、日記を書けなくなっているので、リハビリがてらに書いている。 書けないときは、とりあえず何か書くことが肝要だ。 大学院生で論文を書けない人は、この点を決定的に誤解しているのだと思う。 すなわち、「書くべき確固たる内容ができなければ書くことはできない」という錯誤に陥っている。 無論、書くべき確固たる内容があるならば、書くことは容易だ。書くべき確固たる内容がどんどん湧いてくる人は、そもそも論文を書けずに困る、などということはない。 問題は、「書くべき内容が湧いてこないのに、それが固まらないから書かない」という人だ。 これはずーっと書かない、ということを自ら選択しているということを意味する。大学院に何年もいるのに1本の論文も書けないという人は(やる気がない人は論外として)このタイプだと思って間違いなく、この「構造」を変換しない限り何も書くことはできない。 逆説的だが、書くべき内容がないからこそ、書くことが肝要なのである。 書くべき内容がないから何も書けない、ということはない。それは「完成されたきちんとした内容」を書こうとしているから書けないのだ。 「こんなことがあって、あんなことがあって、こんなことを感じて、それでこんなことを考えた」といったように、書いているうちに思考は進む、ということがある。 「こんなことがあった、あんなことがあった」、これは現実描写の段階であり、一般的に言われる「日記」とはこれを指すといってもよいだろいう。 「こんなことがあった、あんなことがあって、こんなことを感じて、それでこんなことを考えた」というところもまでいくと、エッセイ的な文章ということになるだろう。 それを理論的に深めていけば、「論考」というものになる。 ブログなどのほとんどの記事はこの類型に当てはまる。 ついでに言えば、それを先行する知見、関連する先行研究群に位置づけて、その意義を明示化すればそれは「学術論文」というものになる。 要するに、自分の考えの、どこまでは既に言われていて、どこからが学術的に新しいのかを、過去の文献を渉猟した上で、それらとの異同を示し、その意義を論証するという作業を経て、その意義が他者に了解可能な形にするということが、「学術論文」の条件と言ってよい。 そしてブログに書かれている文章で、他人が読んでもなるほどと思うのは、おおかたエッセイや論考の類だろう。 それはエッセイや論考の方が偉いということではまったくない。 たとえばブログやmixiの日記を、アイディアメモ代わりや、自分の考えの整理、ストレス解消、コミュニケーションの場として活用している人にとっては他人に読ませる文章を書くことは目的ではないため、それぞれの目的において活用すればよいだろう。 ただもし他人に読んでもらって、おもしろいな、ためになるな、と思ってもらいたいなら、出来事の描写 + それで何を感じ、何を考えたのかと深めていけばいいのだと思う。 エッセイに共通していることは、何らかの立ち現れた「出来事」から始まる、ということだ。 そこで何かを感じたとしたら、それは嬉しいでも、悲しいでも、怒りでも喜びでもいいのだが、それは自分にとって重要な「何か」があるということなのだ。 その「何か」を言い当てる。それがエッセイというものであり、うまく言い当てたものを読んだとき、人は「おもしろい」と思うのだろう。 自分が漠然と感じていた何かを、見事に文章にしてくれていると、それを読んだ人は「そういうことだったのか」という快感を感じる。さらにその先を書いてくれていると「なるほど!」と感銘を受ける。 すべての「おもしろい読み物」は、こういうものなのだと思う(たとえば、僕にとっての池田清彦先生の本はまさにこれだ)。 だから、(将来)本などを書きたいと思うひとが訓練すべきことは、何らかの出来事で感じたことを、いかにコトバにするか、そしてそこから独自の議論を展開するかということに尽きる。 論文に特有のテクニカルな問題はあるにせよ、以上のことは学術論文にも当てはまる。 何か自分の頭に浮かんだアイディアを書いているうちに、「書かれたもの」が自分の思考を刺激し、進むべき道、読むべき本、調べるべき文献、書くべきことを教えてくれる、ということが起こる。 ボールを打たずにテニスがうまくなる人はいない。ボールを蹴らずにサッカーがうまくなる人もいない。包丁を握らずに料理がうまくなる人もいない。 それと同じで、文章を「書く」ということは、「行為」である以上、とにかく書くしかないのだ。 そして、書いたモノが、自分の仲間や師匠になって、書くという行為を助けてくれる。 現に、この文章はこうして書かれたものであり、僕はこういうことを考えてたんだ、ということを教えてくれる。 しかし、最初から自分の頭の中に在ったかのように思えるのは事後的な確信でしかなく、それはとりあえず書いたことによりはじめて構成されたのである。

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