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武蔵野航海記

武蔵野航海記

御霊神社

京都の御霊(ごりょう)神社に行きました。

京都市内には上下二つの御霊神社があります。

御所の南に下御霊神社がありますが、私が行ったのは上御霊神社のほうです。

御所の北に同志社大学があって、その北が相国寺で、その北隣が上御霊神社ですから京都のかなり北の方に所在します。

最近の大学というのはショッピングモールのようで、構内にブランドの服屋や料理屋があります。

同志社大学の構内にも、セカンドハウス ウィル というフランス料理屋があり値段がそこそこなので、彼女にカッコいいところを見せるのに使えるかもしれません。

ただしウェイトレスが学生のアルバイトなので、ワインの栓を開けるのにもたもたしているという愛嬌はありますが。

同志社を北に抜けると相国寺ですが、これは臨済宗の大寺で敷地内に多くの塔頭があります。

塔頭というのは、大寺に所属するお寺のことを言いますが、相国寺の場合はこの広い敷地内だけでなく、離れたところにも塔頭があります。

実は金閣寺や銀閣寺も相国寺の塔頭なのです。

このことからも相国寺が非常に格式の高いお寺だということが分かります。

敷地内に承天閣という美術館があって、若冲の絵などがあります。

相国寺を北に抜けて上御霊神社に着きます。

この神社の境内に入った瞬間に「生きている神社だな」と感じました。

地元の人が日常的にお参りしている神社で、単に観光のためだけにあるのとは違うのです。

能舞台もあり、また多くの酒樽が奉納されていました。

この神社の祭神は八柱です

崇道天皇

井上皇后(光仁天皇の皇后)

他戸親王(光仁天皇の皇子)

藤原広嗣

橘逸勢

文屋宮田麿

菅原道真

吉備真備

この祭神を見ただけでこの神社の性格が分かる人は、相当に日本古代史に造詣が深い人です。

実は御霊神社は怨霊の神社なのです。

桓武天皇というのは非常に興味深い人物です。

大化の改新という古代の大クーデターを起こした天智天皇のひ孫にあたります。

もっとも最近は大化の改新は後世のでっち上げで、そんなものはなかったという学説が勢いを得てきています。

天智天皇が死んでその息子が即位した時に、天智天皇の弟とされる大海人皇子が反乱を起こしました。

そして甥にあたる天皇を殺し天武天皇として即位するという事件が起こりました。

この反乱が壬申の乱で、当時の豪族を巻き込んだ大規模な内戦でした。

天武天皇が天智天皇の弟だというのが非常に怪しく、赤の他人だったという説を唱える学者もいます。

私も天武天皇と天智天皇は赤の他人だったと思います。

即位後の天武天皇は新しい王朝の創設者として振舞ったのです。

国名を倭から日本に変えましたが、こういうことは東アジアでは支配者の家系が交代した時、即ち易姓革命が起きた時にすることです。

朝鮮の歴史書では、日本で王朝が交代したという記事が書かれています。

また、天武天皇は律令制度を導入して国家組織を作り変え政治を一変しました。

さらに日本書紀という歴史書を編纂しましたが、これは自分が天皇の位を簒奪したことを隠し自分の子孫に帝位を確実に伝えるためにやったことです。

天武天皇やその子孫の天皇の下では、天智天皇の子孫は日陰の存在でした。

天智天皇の孫に白壁王というのがいて、やはりうだつが上がらなかったのですが、なんと天皇になってしまったのです。

白壁王が即位して光仁天皇になったことによって、帝位はまた家系が代わりました。

この経緯は良く分かりません。

実際には天武天皇が帝位を簒奪したのに、表向きは家系は代わっていないことになっていますから、この辺の事情を正直に記録できないからです。

桓武天皇はこの光仁天皇の息子ですから、帝位の家系が変わった即ち易姓革命が起こったという意識を持っていました。

ですからそれにふさわしいことをしなければなりません。

そこで都を新たに作ることにしたのです。

光仁天皇やその息子の桓武天皇の時代は、宮廷の陰謀が多発した時代です。

陰謀が発覚しては多くの親王や有力な豪族が殺されるという具合で、とうとう天武天皇の子孫がいなくなってしまいました。

偶然で天武系が皆死んでしまったのか、天智系の陰謀の結果だったのかが良く分かりません。

光仁天皇は天皇になる前は白壁王といっていましたが、酒を飲んでは無能者を装い陰謀に巻き込まれるのを避けていました。

そうして聖武天皇の娘を正妻にしました。

彼女は天武天皇のただ一人の子孫となったので、その夫の白壁王に天皇の位がまわってきたのです。

光仁天皇は62歳で即位後正妻である天皇の娘が生んだ息子を皇太子にしましたが、後に陰謀を企てたとしてこの二人を殺しました(記録には殺したとは書いていませんが、死に方が不自然で殺したらしいのです)。

この殺された二人が井上皇后と他戸親王で、御霊神社に祭られています。

その後光仁天皇の側室の生んだ息子である桓武天皇が即位し、実弟を皇太子にしました。

しかし桓武天皇は、後にこの実弟を自殺に追い込んでいます。

これが御霊神社に祭られている崇道天皇です。

つまり、御霊神社の祭神である井上皇后、他戸親王、崇道天皇はみな恨みを残して死んだ者たちなのです。

ここまで来ると分かると思いますが、御霊神社の他の祭神である藤原広嗣、橘逸勢、文屋宮田麿、菅原道真、吉備真備も恨みを飲んで死んでいった連中なのです。

怨霊というのはこの世に恨みを残してなくなった霊のことを言いますが、誰でも何かしら不満を抱いて死んでいくわけで、こういう意味では全ての死者の霊は怨霊になりえます。

「○○家代々の墓」を作って先祖を祭るのは、そうしなければご先祖様が祟るからです。

しかし一般に怨霊といわれているのは、もっと特殊な場合です。

まずは権力者だったという経歴がなければならず、それが人生の途中で挫折し強烈な恨みを残して死に、生きている人に様々な災害をもたらしたと認定されて「怨霊」になります。

一番有名な例が菅原道真の場合で、彼は低い身分の出身だったのですが、その才能で右大臣までなりました。

そこで彼の異例の出世を警戒した藤原一族によって失脚させられ九州の大宰府に流されてしまいました。

そこで「東風吹かば 匂いおこせよ梅の花 主なしとて 春な忘れそ」と都を偲んだ歌を詠んで亡くなってしまいました。

この後、詳しくは覚えていませんが御所に雷が落ちたり藤原一族が次々と死んで、皆はこれは「菅原道真の怨霊のせいだ」と思い至ったのです。

そこで太宰府天満宮を建てて彼の霊を鄭重に祭ったので、菅原道真の霊も穏やかになり人々に幸せを運ぶようになりました。

光仁天皇が粛清したらしい井上皇后と他戸親王の横死後も似たような災害が起こりました。

崇道天皇(早良親王)の自殺後はもっと強烈なことが起きました。

桓武天皇は都を奈良の平城京から京都郊外の長岡京に移そうとしました。

平城京、平安京といった古代の日本の都は人口20万人ぐらいです。

当時の日本の総人口が600万人ですから、その三十分の一ぐらいの人口規模の大都会だったのです。

江戸時代後半の江戸の人口が百万人で当時世界最大の都市だといわれましたが、日本全体の人口が3000万人ですから、江戸は総人口の三十分の一でした。

江戸という大都会は江戸時代を通じて長い年月と莫大な費用を投じてできたのです。

桓武天皇は総人口の三十分の一になる巨大な都市を短期間に作ろうとして、大変な無理をしました。

この労力と費用を提供させられた当時の日本人の負担は大変なものだっただろうと思います。

ところがこの長岡京がほとんど完成した段階で、様々な陰謀が起こりついには皇太子だった早良親王が失脚し自殺したのです。

そして疫病の発生や重要人物の死亡などという怨霊の祟りが現れました。

長岡京は、崇道天皇(早良親王)の怨霊に汚染された都市だということになってほとんど完成していたのも係わらず廃棄され、また平安京(京都)を一から作ることになったのです。

なぜ長岡京は膨大な費用をつぎ込み完成直前になって廃棄されたのか、つい最近まで日本の歴史学者の多くは理由が分かりませんでした。

理由なら当時の資料に書いてあります。

怨霊が暴れまわって疫病が流行し、多くの要人が命を失い、自然災害が多発して、この新しい都市が首都としてふさわしくなくなったからです。

ところが日本の歴史学者の多くは資料のこの部分を読み過ごしてしまうのです。

彼らは怨霊などというわけの分からない物の存在を頭から信じず、それが原因で都が廃棄されたという理由が納得できないのです。

そして自分たちが納得できる原因を一生懸命考え出しました。

経済的な原因とか軍事的な理由とか、豪族同士の勢力圏の問題とか様々に考えました。

ここに日本の平均的な歴史学者の限界があります。

彼らは現在の視点からしか過去を見ないのです。

当時の思想を頭にいれ、当時の視点から様々な歴史的事実を見なければ本当のところは分かりません。

その日本史学者が怨霊の存在を信じないのは本人の勝手ですが、1200年前の日本人は怨霊の実在を信じていたという前提でものを考え資料を見なければならないのです。

古代の日本人は怨霊のたたりを恐れ彼らの行動はこの怨霊対策で説明できる、と考えていた学者は戦前にもいました。

そもそも日本最大の小説である源氏物語では、怨霊が大活躍します。

六条の御息所の怨霊(生霊)は、光源氏の正妻である葵上や愛人の夕顔にとりついて彼女たちを殺しました。

また後には光源氏の後妻にとりついて彼女に浮気をさせ私生児を生ませました。

ところが多くの学者はこれらの少数派を無視し意味の無い「研究」をしていました。

怨霊を真面目に研究すれば、それだけで「学者としての資質に欠ける」と判断されるような雰囲気があったのかもしれません。

それが最近になり、怨霊を真正面から取り上げる学者が増えてきました。

京都大学の梅原猛は元々は哲学者なのですが、怨霊の影響力を力説しています。

そして彼の高い知名度のために日本でも怨霊の影響を重視する人が増えています。

怨霊というのは日本に非常に大きな影響を与えてきたものですが、何時頃から怨霊という発想が生まれたのか、現在も怨霊思想は生きているのかというのが問題だと思います。

怨霊というのが記録で現れたのは平安時代だからそれ以前には無かったということを言う学者がいますが、それは紙に書かれた記録だけを見た結果です。

538年に仏教が日本に伝わった時に、仏教推進派の蘇我氏と反対派の大伴氏が争い政治問題になりました。

反対派は仏教などという異国の宗教を日本に入れたら従来の日本の神が怒ると主張したのです。

そして実際に神の祟りがあったと日本書紀には書かれています。

ですから怨霊思想は仏教の導入を契機に出来たのだという学者もいます。

弥生時代から怨霊思想はあったという学説もあってその証拠に出雲大社をあげます。

出雲大社は大国主命を祀っているのですが、彼は天皇家の先祖に国を奪われて殺された出雲国王でした。

彼が怨霊となって暴れないように鄭重に祀ったのが出雲大社なので、この国土簒奪事件があった弥生時代にすでに怨霊思想があったのだと主張するのです。

私もこの説に納得したのですが、その後研究が進んでそもそも出雲大社が建てられたのは事件から500年後の奈良時代だったということが分かってきました。

日本書紀が真実だということを証明するために色々な物語が捏造されたのですが、出雲大社もそのうちの一つだというのです。

こうなると話は振り出しに戻ってしまいました。

その内に前回触れた梅原猛が出てきて、アイヌ文化と縄文文化はもともと同じものであったと考え、その両方を研究して怨霊思想は縄文時代からあったという結論を出しました。

宇宙人のような格好をした土偶は、実は妊娠中に死んだ女をかたどったもので、彼女が怨霊となって暴れないように祀ったのだというのです。

いずれにしても古くから日本には怨霊が頑張っていたのであって、日本の歴史は怨霊の歴史だという側面があります。

今の日本にも怨霊への恐れが完全に残っているということに関しては皆さんも異存はないと思います。

お墓参りというのは怨霊信仰です。

先祖の霊をお祭りして慰めないと怨霊となって祟るから、「先祖代々の墓」に骨を収めて供養をするのです。

テレビのオカルト番組は輪廻転生と怨霊という現象を盛んに宣伝していて、日本人はますますこういうことを信じるようになっているようです。

「オーラの泉」の江原や最近はあまり出てきませんがギボ愛子などが頑張っていますね。

霊界の神秘というものは、皆が関心を持ち昔から何とか知りたいと努力してきましたがなかなか分かりません。

それをいとも簡単に種明かしできると主張する連中はどういう心理構造をしているのでしょう。

こういういかがわしい番組が人気を博すというのは、日本人がちゃんとした宗教教育を受けていないからです。

これは極めて危険なことです。

室町時代までの日本人が怨霊を真面目に信じていた時代は、その一方で仏教も権威を持っており、一定の歯止めの役割を果たしていました。

ところが今では、このような伝統的な宗教の権威がなくなったので、歯止めがきかないのです。

こういう連中がいい加減に「あの事件はこういう怨霊の祟りだ」などといって、それがテレビを通じて日本人の多くがなんとなく信じるようになれば、これで大衆操作も可能になります。


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