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武蔵野航海記

武蔵野航海記

額田王

天皇家の系図では、天智天皇と天武天皇は兄弟ということになっています。

しかし彼らは兄弟ではない、と私は思っています。

天智天皇は「大化の改新」というクーデターの首謀者ですね。

弟とされる天武天皇は、天智天皇の皇子と天皇の位を争い、「壬申の乱」を起こした人物で、両者は天皇の中でも非常に有名な存在です。

私以外にも二人は兄弟ではないと考える学者や作家はたくさんいます。

両者の年齢を調べた学者は天武天皇の方が年長だから、二人が兄弟というのはでっち上げだという結論を出しました。

天智天皇は671年になくなったのですが、その8年前の663年に日本軍は、朝鮮半島の白村江で唐と新羅の連合軍に大敗北しているのです。

日本軍は3万人近い大軍でした。当時の日本の総人口は500万人で日露戦争当時の十分の一です。

しかも当時は全土が政治的に統一されていたわけではありません。

日露戦争で日本が国運を賭けて満州に派遣した軍隊が30万人でした。

日本が白村江に投入した軍隊は日露戦争時よりも動員率としては高いのです。

まさに国運を賭けた戦いでした。そして見事に負けました。

新羅はともかく唐は人口でも国力でも当時の日本の十倍ですから、日本は、全国に要塞を築くなど防衛体制を固めました。

そして中央集権国家を作るために、急いで律令制度を導入しました。

朝鮮半島では、日本と同盟していた百済は完全に滅亡し、高句麗も唐に滅ぼされていました。

そして、朝鮮半島は唐と新羅で分割されました。

このとき唐と新羅の連合軍が日本に攻め寄せていたら、今の日本はなかったと思います。

ところがこの時、唐と新羅は仲が悪くなったのです。新羅は唐に占領された高句麗の領土を狙っていたからです。

唐は新羅もこの際滅ぼそうと考えました。そして両方が日本と同盟を結ぼうとしたのです。

唐は天智天皇に接近しました。共に新羅を討とうというのです。唐と同盟を結ぶことが出来れば日本は安全だと考えた天智天皇は、唐との同盟に傾きます。

新羅は天智天皇の有力なライバルであった後の天武天皇に接近したのです。新羅が滅ぼされたら次は日本の番だという理屈です。

結局、天智天皇と後の天武天皇は、唐と新羅の代理戦争をしたのです。

私は、さらに国名を「倭」から「日本」に変え、又元首の呼び名を王から天皇に変えたのが天武天皇だという事実に着目しました。

当時の日本はチャイナ文化の圧倒的な影響下にありました。

天武天皇のブレインには華僑上がりのチャイニーズが大勢いました。

又、日本は唐や新羅と交渉しなければなりませんから、チャイナの常識を前提に行動しなければなりません。

チャイナの常識では、国名を変えるということは、新しい王朝が出来たことを意味します。

天は、地上の人間達を幸せにするために有徳の男を天子(皇帝)に指名します。そして帝位はその子孫に継承されます。

その子孫が極悪非道で天子を失格したら、天は新たに家系が全然別の男を天子に指名します。

これが易姓革命です。天が命令を革(変)えて、別の一族を天子にするという意味です。

実際には、世が乱れて群雄が割拠し、最後に勝ち残ったものが帝位に着くのを、理論的に易姓革命で説明するのです。

天武天皇と天智天皇が兄弟であれば、同じ一族の間のお家騒動ですから、家系は変わりません。従って国名も変えません。

実はチャイナの歴史書は日本に易姓革命があったことを記録しているのです。

旧唐書には、下記記載があります。

日本国は倭国の別種なり。其の国日辺に在るを以って、故に日本を以って名と為す。

或は曰う、倭国自ら其の名の雅ならざるを悪み、改めて日本と為すと。或は云う、日本は旧小国、倭国の地を併せたりと

倭国と日本は別の国で、日本が倭国を併合したというのです。

これからも天智天皇と天武天皇は赤の他人だったことがお分かりだと思います。

天皇家は万世一系ではないのです。

天武天皇は、日本の元首の呼び名を王から天皇に変えました。

天皇と皇帝は同じ意味です。チャイナの皇帝には自分を天皇と呼ばせた者もいます。

即ち、チャイナの皇帝と日本の天皇は同格ですから、チャイナの属国にはならないと宣言したのです。

中華思想に凝り固まったチャイナは、天武天皇の宣言を認めるわけにはいきません。

従ってそれ以後明治維新まで、1200年間チャイナと日本の間には正式な国交はありませんでした。

天智天皇と天武天皇が、赤の他人でライバルだったという事実を頭に入れて額田王の歌を詠むと今までと違った解釈が出来ます。

あかねさす紫野行き標野行き 野守は見ずや君が袖振る  額田王

この美しい歌に対する天武天皇の返歌が

紫草のにほへる妹を憎くあらば 人嬬(妻)ゆえにあれ(われ)恋めやも

額田王は豪族の娘で、最初の愛人だった天武天皇との間に子供まで作っています。

それを天智天皇が横取りし、この歌のときは天智天皇が愛人でした。

気候の良い時、宮廷中で野原にピクニックに行ったのですが、そのときに天武天皇がかつての彼女に遠くから袖を振ったのです。

当時袖を振るのは求愛のサインでした。

これを見て彼女が「ちょっと、やめてよ 人が見るじゃない」と言ったのです。

この歌には変なところがいくつかあります。

額田王は宮廷に仕事を持っているキャリアウーマンで、有力者の妾という存在ではありません。愛人なのです。

その仕事とは歌を詠むことで、例えば、山から国土を見渡しながらその土地をほめる歌を読ます。

すると国土は喜んで豊かな実りをもたらすのです。

額田王は特殊技能でもって宮廷に仕えているわけで、彼女を所有することは支配者の資格だともいえるのです。

豊かな実りをもたらすことが支配者の務めであり、その特殊技能者を他人に取られたまま放置するのは、支配権の放棄ととられかねません。

二人は、支配の道具である彼女を巡って争ったのです。

そうでもなければ、子までなした女性を実の弟から取り上げるのは、如何に奔放な古代でもスキャンダルではありませんか。

天智天皇にはすでに大勢の女性がいるのです。

彼女をあきらめなければならない立場の男が、人の目を盗んで女にサインを送るというのは、格好の悪い話ですね。

天武天皇にとって格好の悪い話ですから、単なる戯れ歌であれば万葉集の編纂者は気を使って削除するはずです。

この事件はそれなりに意味があったから、歌を残したのではないでしょうか。

私には、赤の他人に愛人を盗られ、彼我の力関係から自重している男が目に浮かんでしまうのです。


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