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武蔵野航海記

武蔵野航海記

天台本覚論

戒律を守ることが悟りには不可欠だとお釈迦様は仰ったのですが、日本人にはこのことが分からないらしいですね。

出家の儀式を受戒といいますが、これは資格のある僧侶が新しく出家する者ものに対し戒律を授け、これを守ることを誓わせるものです。

奈良時代に仏教を本格導入した当初、日本には戒律を授ける資格のある僧侶がいませんでした。

それを聞いた鑑真和尚が、日本人に戒を授けるために、数回にわたる難破で最後は盲目になりながらも日本に渡ってきました。

戒律とはこれほどのものなのです。

この戒律を日本の仏教は廃止してしまったのです。

仏教がチャイナに入って「本覚論(ほんがくろん)」という考えがおこりました。

人間の心の中に「仏性」が宿っていればこそ、修行によって悟れるというものです。

伝教大師最澄は、この「本覚論」の考え方をさらに発展させ、「天台本覚論」を唱えました。

人間の内心には仏性が宿っているのだから、戒律を守らなくても悟ることが出来るという考え方です。

そして戒律をずっと簡略化して実質的に廃止してしまいました。

お釈迦様は悟りにいたる方法は一つではないとおっしゃったから、戒律を守ることが悟りの絶対条件ではありません。

ただ戒律を実質的に廃止した日本仏教ははたして仏教であろうかという問いは残ります。

日本の仏教が戒律を廃止したのは、末法思想の影響を受けたという面もあると思います。

末法思想とは、釈迦入滅後2000年を過ぎると釈迦の教えが行われなくなり、修行するものもいなくなるという考えで、当時1052年が釈迦入滅後2000年にあたると考えられていました。

修行が行われないので悟れないという最悪の事態を避けようとした時、脚光を浴びたのが天台本覚論です。

戒律を守らなくても救われるという考えに人々は望みを託しました。

以前にも書いたように、法然上人の悪人正機説「善人なおもて往生を遂ぐ いわんや悪人おや」も、天台本覚論からでたものです。

悪人正機説は親鸞聖人でなく、師匠の法然上人の言葉でした。ブログの読者から指摘を受けたので訂正します。

尚、比叡山の一山衆徒が多数決で物事を決める習慣は、僧侶の間での習慣でした。

これが俗社会にも広がり最終的には日本人の常識になったのは、日本の仏教が戒律を廃止し、僧侶が俗人と一緒に生活するようになったからです。

従って、僧侶が戒律を守り俗世間から隔離している日本以外の仏教国では、多数決が国民の常識になっているという現象はありません。


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