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武蔵野航海記

武蔵野航海記

平将門

源頼朝と前後してしまうのですが、平安時代中ごろの地方の武士の実例として、十世紀半ばに関東で大反乱を起こした平将門を挙げてみようと思います。

桓武天皇のひ孫の高望王が臣籍降下して平氏になり上総介(千葉県知事)として坂東に赴任したのが890年でした。

彼は在任中職権を利用して私財を蓄積し、任期満了後も都に帰らず土着しました。

彼には七人の息子がいましたが、彼らは鎮守府将軍や関東地方の受領(現地に赴任した国司)といった地方役人になりました。

そして職権を利用して自分達の生活基盤を強化しています。

彼らはそれが可能な家柄だったのです。

将門はこの高望王の孫の一人です。

若い頃都に出て藤原摂関家に仕えたりしましたが、役人の地位を得ることなく関東に帰っています。

あまり要領の良いほうではなかったようです。

935年に将門は、二人の叔父と合戦し一人を殺していますが、原因ははっきりしていません。

女が原因だったという説もあります。

このとき叔父は二人とも地方政府の役人をしていました。

翌年、別の叔父は下総介という役人でありながら、兵を率いて隣の常陸の国に出陣して将門と戦っています。

合戦後都に上りじぶんの行動を弁護した将門は、微罪の判決を受けましたがすぐに恩赦されています。

その後また一族と合戦して打ち負かした将門は別に罰せられることもなく関東で盤居していました。

そして関東の名士になった将門は、武蔵の郡司と武蔵守の紛争を調停するなど楽しそうにしています。

将門の従兄弟で父を殺された貞盛が将門の暴状を訴えたので、朝廷は将門追捕の命令を出します。

一方の将門は、昔仕えた藤原忠平(摂政左大臣)のルートで釈明し疑いを晴らしています。将門の最初の合戦から三年後の938年の事です。

この一連の事実から、地方にはまともな行政組織がなく、役人自身が勝手に合戦していることが読み取れます。

また朝廷の決定が、摂関家によりひっくり返えされているわけで、政府の決定自体がまともに調査した結果ではなくいい加減に為されている証拠です。

地方政府の役人同士の争いの調停を無官の将門がしたということにいたっては噴飯ものです。

将門が常陸国府を襲い国の印を奪ったので、朝廷はやっと将門が反乱を起こしたと認定し征東軍を組織しました。

都のわずかばかりの警察組織を軍隊に仕立て上げたのですが、最初の合戦から五年も経った後の940年のことです。

その将軍には軍人の経験のない68歳の老人が任命されました。

前年に参議という閣僚に任命されたばかりの新米だったので貧乏くじを引いたのですが、当時の68歳はいつ死んでもおかしくない年齢です。

結局、将門軍を打ち破ったのは、藤原秀郷という北関東の有力者でした。

地方の秩序を保つ力がもはや政府にはないことがこの事件で明らかになったわけです。

この時代の地方有力者は、まだ家之子郎党を従えた組織的な武士団を形成していなかったので、まだ完全な武士とはいえません。

しかし、この頃から地方有力者の武士化が進行します。


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