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武蔵野航海記

武蔵野航海記

由井正雪

1600年関が原の戦いで徳川家康が勝ちます。

1615年には大阪夏の陣で豊臣家が滅び、1638年には島原の乱が平定されます。

それまでは大名達の気分は戦国時代で、いつか徳川をやっつけて自分が天下を盗ろうと思っていました。

しかしその夢も島原の乱あたりから消えてゆきます。

このころ経済は高度成長期でした。

室町時代からの土木技術の向上がスピードアップしたのが戦国時代で、この傾向が17世紀末の元禄時代まで続くのです。

大河の下流域がものすごい勢いで農地化され人口が増え続けました。

1600年には1230万人だった日本の人口が、120年後の1721年には3130万人と2.5倍になったのです。

なお鎌倉時代の初めは700万人です。

大名達も領内の開発に一生懸命でそれなりの効果が得られた時代でもありました。

このような時に由比正雪の乱が起きます(1651年)。

これは浪人たちが幕府を転覆しようとして企てたものですが、未然に情報が漏れ失敗します。

しかしこの事件に徳川幕府は大きな衝撃を受けます。

それまで、徳川将軍は外様大名を様々ないちゃもんを付けて取り潰してきたのです。

関が原で敵だった大名から没収した領地が640万石でした。

その後も大名の取り潰しが相次ぎました。

小早川秀秋(51万石)、堀忠俊(50万石)、豊臣秀頼(65万石)、加藤忠広(清正の息子 52万石)、福島正則(50万石)、最上家親(52万石)、蒲生忠郷(60万石)、堀尾忠晴(24万石)、田中忠政(32万石)が潰されています。

親藩(徳川の分家)も松平忠輝(60万石)が潰されています。

関が原以後17世紀半ばまでに没収された領地は1000万石をはるかに上回ります。

大名は大雑把に言って一万石の石高で、250人の軍隊を動員しなければなりませんでした。

この基準である学者が計算したところでは40万人が失業し、そのうち再就職できたものを差し引くと24万人が浪人として残ったそうです。

しかし通常大名家の常雇いは1万石あたり120人程度なのでこの数字を半分にすると12万人が失業者として残り、家族を含めると70万人で、日本の人口の4%程度が浪人だったことになるのです。

浪人たちは当時非常に過酷に扱われていました。

大名は「浪人払い」といって領内に住むことを許さなかったのです。

幕府も浪人の住めない場所を指定したりしました。住めないということは仕事ができないということです。

また「武家奉公構え」というのもありました。

大名が暇を出した者に他家に仕えることを禁止することです。

「○○を雇う場合には当家と合戦する覚悟をせよ」という通告を日本中の大名にするわけですから、誰も雇うものがありません。

大阪の陣で豊臣方の武将に後藤又兵衛という豪傑がいました。

彼はもともと黒田如水の侍大将で、1万5千石という大名並みの石高を持つ男でした。

これが如水の息子の長政と仲が悪かったのです。

親父が生きている時は、又兵衛は黒田家の侍を率いて大活躍していました。

しかし息子の長政が大名になると喧嘩して黒田家を出てしまいました。

黒田長政が後藤又兵衛をこの「奉公構え」にしたのです。

何万石という条件で又兵衛をリクルートしようとした大名は多かったのですが、長政が「あいつを雇うのだったら黒田家と合戦だ」といったものですから、誰も雇えなかったのです。

又兵衛はとうとう乞食になってしまいました。

大阪の陣のときに豊臣方が彼に目を付けて大将にしたのももっともです。

実は家康も大阪の陣の直前に又兵衛をリクルートしようとしたのです。

しかしこのときには又兵衛は意地になっており、豊臣方の大将になったのです。

このように浪人は過酷に扱われていたのです。

由井正雪の反乱計画自体は幼稚で事前に情報が漏れたのでどうということはありませんでした。

由井正雪の乱をきっかけに徳川幕府は改めて浪人問題の深刻さを悟ったのです。

そこでその年のうちに「末期養子」を認めます。

大名に世継がなく、死ぬ直前(末期)に跡取りを指名するのが末期養子です。幕府はそれまでこれを認めなかったのです。

しかしこれが大名の取り潰しの大きな原因で、浪人発生の理由だったので末期養子を認めたのです。ただし石高は半分にされます。

跡継ぎの出来ない大名もつらいところです。早々と養子を決めておけば幕府の関係では問題がありません。

しかしそのあとに実子が生まれたらお家騒動が起こります。

お家騒動も大名の取り潰しの理由になります。

どうしようか悩んでいるうちに、あっさりと当主が死んでしまうことが多かったのです。

なにしろ医療が発達していませんから人は簡単に死んだのです。

「末期養子」が認められてからは、当主が死ぬと家老が主君の死を秘して幕府に末期養子の申請をするようになりました。

多額の賄賂をばら撒くのは勿論のことです。

幕府から養子が許された後で当主の死をアナウンスするわけです。

江戸時代に末期養子で石高が半分になってしまった大名はたくさんあります。

山形県の米沢が領地だった上杉家は、上杉謙信の子孫です。

上杉謙信は越後を本拠地として250万石ぐらいの領地を持った大大名でした。

謙信の死後甥の景勝があとを継いだのですが、織田信長に攻められて衰微し秀吉によって米沢120万石に転封されます。

ところが、関が原では豊臣側に付いたために30万石にされてしまいました。

1664年景勝の孫の綱勝が急死し末期養子によって家は存続できましたが、石高は15万石になってしまいました。

このとき上杉家へ養子にきたのが、忠臣蔵で悪役として名高い吉良上野介の息子です。

このように由井正雪の乱をきっかけに幕府は、統治の方法をむき出しの武力から融和路線に変更します。文治主義です。

由井正雪の乱の起こった1651年は幕府が政策を転換した重要な年です。

上杉家は秀吉の時の120万石が最終的に15万石と1/8になってしまいます。

しかし余剰人員を整理しても再就職先がありませんから、全員の石高を減らして雇用を維持しました。

しかしこんなに石高を減らされては経費削減も追いつきません。

ついには藩を解散しようというところまで行きました。

このような時に上杉家に養子に来たのが上杉鷹山(ようざん 1751~1822)です。

九州の小藩から17歳で養子に来るのですが、代々の家老たちからいじめられます。江戸時代という階級社会では考えられないような無礼な扱いを受けるのです。

しかし質素倹約や産業の振興により藩政を立て直し江戸時代最高の名君と賞賛されています。

今から40年以上前に、一番尊敬する日本人は誰かと日本人記者に質問されたケネディー大統領が上杉鷹山と答えました。

その時そこにいた多くの日本人記者は誰一人として鷹山の名前を知りませんでした。

私は日本の教育はどうなっているのだろうとつくづく思います。

アメリカに行くような新聞記者であれば教養豊かなはずです。

その彼らが鷹山を知らないということは日本全体が彼に無関心だということです。

現在の日本の基礎となっている江戸時代に関する無知はひどいものです。

その結果日本人は自分達の思想の根源が何か分らなくなっています。


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