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武蔵野航海記

武蔵野航海記

18世紀の思想家たち

18世紀前半から百年間の日本は、色々な思想が出てきた時期です。

荻生徂徠によって儒教の束縛から解放され、経験に基づいてものを考える様になりました。

この期間は明治維新からの近代化を準備した時期でもあります。

しかしこの平和な時代も19世紀にはいってヨーロッパの軍艦が日本の海域に出現するようになって終わりました。

徂徠はもっぱら政治制度がどうあるべきかという実際に有用なことを思索していました。

宇宙がどうなっているかとなどという思索的なことについては触れていません。

しかし彼の後継者たちは儒教を初めとする宗教の世界観を次々に打ち壊していきます。

蘭学者で洋画家でもあった司馬江漢(こうかん 1747~1818)は、「天とは朱子学がいうような虚無の状態ではなく空気が充満している」と説明しています。

天を自然科学の眼によって分析しているのです。

また経済学者の海保青陵(せいりょう 1755~1817)は地球のごく一部であるチャイナの思想が人類全体に当てはまる思想ではないと考えました。

このようにこの時代の思想家たちはオランダ経由の西洋学問である蘭学に触れたことによって以前の儒教的な考えを変えていっています。

このような雰囲気の中で、山片蟠桃(ばんとう 1748~1821)が登場します。

彼は大名に金を貸し付けていた大阪の大商人升屋の番頭だったのでニックネームを蟠桃にしたのです。

彼は升屋を再建し自分も大番頭として経済界で活躍した大実業家です。

仙台の伊達藩などの大名の経済活動に食い込んでいた御用商人でしたからその思想は保守的です。

懐徳堂という大阪の準国立の儒教大学で学んだ朱子学徒で徳川の封建社会を積極的に肯定しています。

一方でオランダの天文学を学びその科学的自然観から仏教・儒教・神道の宇宙観を否定しています。

特にイザナギ・イザナミが日本の国土を作ったという件に関して、まだ住民がいないのにそこの支配者だというのは論理的に矛盾しているとしています。

著書「夢の代」で死後の霊魂は存在しないと宣言しました。

儒教は無神論ですから彼も容認できたのですが、チャイナが世界の中心だという考えは天文学の知識から否定しています。

以前に述べた石田梅岩(ばいがん 1685~1744)も宗教を薬と理解していますから無神論です。

この時代から以後の日本の思想家は自分の考えを儒教の言葉を使って説明している場合でも、もはや儒者ではありません。

儒教が定めている社会組織や宇宙観(絶対的な天が存在していること)を認めてはじめて儒教と言えるからです。

幕末には幕府立の朱子学大学である「昌平黌」の教授も、教室では朱子学を教えていましたが、個人的には朱子学を信じていないという事態にまでなっていきます。

この時代に日本の知識人が宗教を否定したものですから、それ以後現在まで日本人は宗教を真面目に考えなくなってしまいました。

その結果、宗教というものに無知になってしまいました。

しかし無宗教になったのかといえばそうでもなく、宗教的感情は強固に残っていますから、宗教に対して非常に歪んだ態度になっています。

超能力やオカルトの話題がテレビで人気を集めていますし、仏滅に結婚式をする人はいません。正月には律儀に初詣に行きます。

また書店には仏教やキリスト教の解説書が山と積まれています。宗教への関心は高いのです。

しかしその内容が偏っています。心の問題だけを書いていて道徳的な訓戒を垂れているものになっています。

しかし宗教というのは個人の心の問題だけではなく、一つの国民の考え方に大きな影響を及ぼしています。

従って政治制度、社会制度、法律にまで決定的な影響を及ぼしているものです。

このような社会全般に対する宗教の大きな影響力に気が付かないものですから、日本人は外国人の行動が理解できなくなっています。

この結果個人レベルでも、ビジネスの場でも、外交という国家レベルの場合でも不必要な摩擦が多発しています。

当時の日本人は蘭学を学び、自然や社会に対しても宗教的前提を持たないで冷静に観察するようになりました。

今の自然科学や社会科学に近い研究方法がとられてくるようになったのです。

その結果生まれてきたのが「実学」です。

数学者の本多利明(としあき 1743~1821)は天明の大飢饉の最中に奥州を旅してその悲惨さに愕然とし、国内だけでは資源が不足していると思いました。

初めはロシアの南下政策に対抗することも兼ねて北海道を開発することを考えていました。

本多利明はその後国内の交易という枠を超えて海外との貿易も考える様になりました。

そしてヨーロッパの経済や政治を調べた結果、オランダは弱小国であることを知り、世界経済で先頭に立つイギリスやフランスとの交易をしなければならないと考えたのです。

チャイナのように侵略によって国家を大きくしても経済的に豊かになることは出来ないとしています。開国論です。

利明は一方でそのリスクも承知していました。

国際貿易は互いに相手の利益を吸い取ろうとするもので戦争と同じだという認識をしていたのです。

またヨーロッパの科学の発展はアルファベットという簡単な文字を使用していることによるところが大きいと考えました。

そこから、多くの漢字を廃止して覚えることにエネルギーを浪費することをやめてしまえと提言しています。

海保青陵は当時の日本の経済を分析し、商業を発達させるしか幕府や諸藩の財政難を解決する方法はないという結論を出しました。

そして人間関係を経済学的にみています。

君臣関係は市場原則に基づいているというのです。つまり

「君主は臣下を買い、臣下は自分を君主に売りつける。天子は天下という資本を所有している大金持ちであり、それを民に貸し付けてその利息で生活している」

君臣関係でさえ売買の関係なのだから、日本の経済はすべて市場原則で説明できると考えるのです。

平賀源内(1728~1780)はエレキテレの制作で有名ですが、薬品の物産展を開いています。

当時は多くの薬が海外から輸入されていましたが、源内はそのうちかなりの物が国内でも産出していることを知ったのです。

国内産の薬を使えば貿易収支の赤字が解消できるというのがこの物産展の目的です。

このように彼らは色々なものに興味を示していますが、それを実際の社会に役立てることを念頭に置いています。

そして対象を科学的な態度で見てそれを事業化しようという姿勢が明治になってヨーロッパの思想を理解する上で非常に役にたちました


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