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武蔵野航海記

武蔵野航海記

日本国憲法

太平洋戦争は日本国内の事情と敵国の事情の両方により起きました。

国内の事情としては、日本最強の運命共同体だった軍部が自分たちの組織の維持・拡大を最優先に考えたのが原因です。

軍部が自分たちの組織の存在価値を、戦争を続けることによって維持し続けたのです。

さらにその背景をたどっていくと、日本人に共通する体系だった正義がなかったのが原因です。

日本人が自分たちの正義の体系を持っていれば、無理やりにヨーロッパの価値観に自分たちを合わせて仲間入りしようという脱亜入欧など考えなかったはずです。

ヨーロッパ列強とは、お互いに違う文化を持っているという認識の下に他人どうしの冷静な関係を作り上げればいいわけです。

ヨーロッパ列強に仲間入りを拒否されたからといって、アジアの盟主になって対抗しようということも考えなかったはずです。

日本人の文化は支那や朝鮮とは根本的に違うので同じ正義の体系を持つはずがないのです。

ところが江戸時代の初めに明が夷狄である満州人に占領されたことが契機となって、日本こそが東アジアの価値観である儒教の本場だと考えてしまいました。

そしてその幻想がずっと続いていたのです。

日本と支那や朝鮮は正義を共有する仲間ではないということを認識していれば、アジアの盟主となってヨーロッパ列強に対抗しようという「アジアの盟主」などという発想もうまれるはずがありません。

そうなれば、軍部も日本人全体の考え方と異なる行動はとれないのです。

そして支那を巡ってアメリカと対立するようになった段階では、冷静にそろばん勘定が出来たはずです。

支那と戦争を続けることは泥沼にはまることなので勘定が合うはずがないのです。

ところが軍部は、日本人のもっている「アジアの盟主」という幻想と自分たちの組織を維持拡大するという欲望のために、支那から撤兵が出来ずに戦争になってしまったのです。

日本には儒教の思想は全くといって良いほど入っていません。

だから支那や朝鮮が日本を盟主と認めるはずもないのです。

日本は東アジアの盟主ではなく、その仲間入りもしていません。

これは1300年前に天武天皇が天皇を名乗り支那との国交を断絶し鎖国した結果です。

その間に民間の文化交流があったではないかという反論が出てきそうです。

しかしそれは儒教を分っていない反論です。

儒教というのは政治を中心とした思想です。

支那の皇帝が世界の中心だという思想を日本が拒否したのですから、日本はその根幹となる原則を拒否したことになります。

儒教のもう一つの大原則である宗族という男系の先祖と血統を同じくする集団の利益を最優先するという考え方も入っていません。

日本は「同じ釜の飯を食った」者は一族だという発想であり、宗族という概念は極めて希薄です。

日本にも「家」という意識はありますが、これは必ずしも同じ血統の集団ではありません。

養子という全く異なる血統のものを迎え入れて平然としています。

日本の「家」は血統ではなく職場であり日頃一緒に働いている仲間の集団をさすのです。

だから「遠くの親戚より近くの他人」という言葉ができるのです。

一方の支那の宗族というのは一つの理念です。

はるか昔の先祖から枝分かれした一族の結束は絶対的です。

例えば、ニューヨークで偶然知り合った支那人どうしが実は500年前に枝分かれした一族だったとわかったとたんに、熱狂的に親密になります。

そうしてお互いの便宜を図ることが最優先となります。

日本人どうしがパリで同じ源氏で400年前に枝分かれした一族だとわかっても単なるエピソードでしかありません。

日本人には宗族という制度はないのです。

このように1300年の間に日本とこれら両国は全く違った発展を遂げてしまいました。

日本が彼らと思想を共有する仲間になるのは不可能なのです。これはもう断言できます。

お互いに全く違うという前提で、他人の関係を続けていくしかないのです。

明治という絶好のチャンスに日本人は自分たちの世界観を作り上げようとせず、またもや外国の価値観をいとも気軽に採用しました。

その結果、キリスト教社会からも東アジア社会からも受け入れられませんでした。

その事実を分らずに起こしたのが太平洋戦争です。

戦争を始めた軍部は敗戦で消滅しました。

このときのことを日本人は「大きな重石がとれたようだ」とか「戦争中は日本が日本軍に占領されていたみたいだった」とか言っています。

ですから、いかに軍部の考えと一般の日本人の感覚がずれていたかが分ります。

軍部が消滅して本当の占領軍がやってきました。

かなりの危険を覚悟していたマッカーサー大将は日本人が全然抵抗しないで彼とアメリカ軍を歓迎したのに驚いています。

マッカーサー神社まで出来たのです。

このときの日本人の態度はまさに「あるべきようは」です。

社会を自然物や動植物と同じく自然の一部と考えるのです。

占領軍という嵐が日本にやってきたという感覚です。

そしてこの自然の秩序のなかで自分の居るべき位置を悟るのが正しいと考えるのです。

軍部という自然物に占領されていた状態が、アメリカ軍という新しい自然物に占領された状態に変りました。

そして双方の占領軍を比較して「今度のほうがまだましではないか」と考えたのです。

そこで日本人はこの新しい自然に適応したのです。

アメリカ軍は日本占領中に「日本国憲法」をもたらしました。

日本国憲法の問題は実質的な面と形式的な面の両方から検討しなければなりません。

実質的な面を考えると日本人はこの憲法を理解していません。

デモクラシー(民主主義)というのはキリスト教を背景としたものですが、日本人の大部分はキリスト教徒でなくその教義を理解もしていません。

従って自由・平等・基本的人権というキリスト教の教義から来た権利の内容を理解できるはずもないのです。

ヨーロッパでは自由・平等・基本的人権などは神が人間に与えたものです。

だから誰も奪えないのです。

一方日本ではこれらの権利は「生まれながらに与えられた」権利だとしています。

では誰から与えられたのか?

神や仏から与えられたのでなければ「自然」から与えられたとしか解釈できません。

しかし日本人の「自然」というのは支那の「天」と違って意思を持ち善悪を判断するものではなく、ただ存在するものです。

だから路傍の石が突然善悪の説教をやりだしたようなもので、どうにも変なのです。

日本国憲法には非武装という民主主義とは別の考え方が混じっています。

キリスト教では神の意思を侵害するものに対しては戦って神の栄光を復活させなければなりません。

だから非武装という考え方はキリスト教に基づく民主主義ではありません。

平安時代や江戸時代のような鎖国をして外国からの脅威の無い時代の郷愁からきたものです。

そしてこれが中江兆民式の「生き延び、人間的な生活をする権利」という「民権」思想と習合したのです。

よくイギリスの王室が天皇家と比較されますが、日本の天皇とは全然違う根拠で存在するものです。

17世紀の終わりにイギリス人は従来の王を追放し、新しい王家と契約を結んだのです。

新しい王家が神の法を守るのであればイギリス人は自分たちの持っている主権の一部を王にゆだねて政治を任せるという契約です。

この契約がまだ続いているのでイギリスの王家は存在しているのです。

一方日本の天皇家は日本人と契約をしたわけではありません。

ただ先祖が神だという神話を捏造して日本人に信じ込ませただけです。

天皇制というのは民主主義とは別の原則で存在しているのです。

天皇制や非武装と民主主義は相容れないのです。

このように日本人は現在の「日本国憲法」を理解していません。

日本国憲法を形式的な側面から見ても変です。

前文は左記のようになっています。

朕は、日本国民の総意に基づいて、新日本建設の基礎が、定まるに至ったことを深くよろこび、枢密顧問の諮詢及び帝国憲法第七十三条による帝国議会の決議を経た帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを交付せしめる。

御名 御璽   昭和21年11月3日

戦争に負けアメリカに占領されていた昭和21年11月まではまだ帝国憲法(明治憲法)が存在していたという前提に立ち、その明治憲法を改正したのだというのです。

しかし戦争に負け、国土は外国に占領され軍隊は解体されて占領軍の決定が従来の法体系より上位になっている状態でした。

憲法とは国家の基本的な仕組みのことですから、従来の国家体制が崩壊したということは、憲法も消滅したということです。

敗戦と同時に明治憲法は消滅したと考えるのが正しいのです。

この辺の事情を東大法学部の伊藤正巳教授は「憲法入門」で次のように説明しています。

「日本国憲法は明治憲法の改正とされているが、内容的に根本的な変更がなされているから新憲法の制定である。

特に明治憲法の天皇主権が国民主権に改められたことは国家の基本構造が改められたことになる。

このような国家の基本原理の変更は法的には革命である。」

つまり革命によって、憲法が新しく出来たのであって改正という手続きは見せかけだけの話だと説明しています。

伊藤教授は、憲法上の革命の根拠はアメリカを始めとする連合国が日本に降伏を迫ったポツダム宣言を日本が受諾したことだと考えています。

ポツダム宣言の中に次のような条項があるのです。

「日本国国民が自由に表明する意思に従って平和的傾向を有し、かつ責任ある政府が樹立されたときには、連合国の占領軍は直ちに日本国より撤収する。」

伊藤教授はその本で、日本国憲法の正当性を一所懸命説明していますが非常にわかりにくい説明になっています。

それはその説明が矛盾だらけだからです。

ポツダム宣言を受諾した時の日本の主権者は天皇です。

つまり「日本国憲法」の主権者である国民の承諾なしにポツダム宣言を受諾したのです。

従ってポツダム宣言に書いているような「日本国民が自由に表明する意思」はなされていないのです。

日本国民は戦争が終わったことにほっとして占領という事態も受け入れました。

しかし新しい価値観の体系を受け入れたという意思表示をしていないのです。

社会体制が変わり新たな憲法が起きる時は、革命が起きてその後の全国的な内乱によって国民の意思が確認されるのが普通です。

しかし日本国憲法の場合、その成立が納得できるような明確な大事件がありません。

だから伊藤教授はしかたなく「ポツダム宣言」などというものを引っ張り出したのです。

日本国憲法を適法に成立させるには主権者たる国民の意思を確認しなければなりませんが、今までその確認がなされていません。

占領が解除された後でこの憲法の賛否を問う国民投票をするという方法もあったはずですがそれもなされていません。

日本国憲法は成立していないのです。

一般的に新しい憲法を制定させる方法は特に決まっていません。

当然の話で、新しい憲法を作るということは主権者が変わったということを意味します。

敗戦なり革命なりで従来の主権者が力を失い新しい勢力が取って代わるのですから、ものすごい熱気の中で新しい憲法が成立するのです。

従来の憲法の中に、「主権者が交代したときはこうする」などという規定があるはずがないのです。

結局なんらかの形でその社会の中心となる勢力=主権者の意思が確認でき、皆がそれを受け入れれば憲法が成立するわけです。

12世紀末関東の武士たちは頼朝をかついで、平家軍や朝廷軍と全日本的規模で戦い、鎌倉幕府を作り上げました。

主権者たる御家人たちは武力で日本人に新しい体制を承認させたのです。

別に「鎌倉憲法」という紙に書かれたものがあるわけではありません。

しかし鎌倉将軍を中心として主権者たる御家人たちが朝廷に従わず自分たちで政治を行うという考え方そのものが憲法です。

イギリスの憲法も紙に書かれたものはありませんが、誰もその存在を疑っていません。

貴族が国王と戦って得たマグナカルタ、国王を死刑にした清教徒革命や国王を入れ替えた名誉革命の背景になった考え方が憲法になっているのです。

逆に紙に書かれていても、主権者の明確な意思表示がなければ単なる「憲法草案」にすぎません。

明治憲法は、幕末に大勢の武士や草莽の志士といわれた平民などが天皇を主権者と認めて戦い、彼らの血と汗の結果としてできたものです。

このようにものすごい熱気とものすごい数の国民の参加の結果、ひとつの体制が出来上がり正統性を持つようになるのです。

無風状態で手品のようにして出来るものではありません。

ましてや「日本国憲法」は主権者を国民としています。

その主権者たる国民がいつ憲法を作ったという意思表示をしたのでしょう。

今、「憲法改正」の論議がありますが、これは日本国憲法が存在しているという前提で話を進めています。

しかし実際には日本国憲法は成立していないのですから、これは国民を騙している詐欺です。

手続きとしてはまずは日本国憲法を成立させなければならないのです。

今の憲法改正論議には「はたして日本の憲法は成立しているのか?」という疑問が見当たりません。

これはマスコミも一体となって、本当の姿を日本人に知らせまいとしているとしか私には思えません。

憲法とはそもそも如何にして成立するのかという説明がないのです。

「押し付け憲法」だからダメだという意見がありますが、そもそも押し付けられたものなど憲法ではないのです。

憲法とは国民が力によって、血と汗でもぎ取ってくるものです。

今日本人の一人一人がどのような憲法を作るべきかをじっくりと考える時だと思います。


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