何で始めたか-2-☆私の根源の問い☆
過労死遺族として、自分の労災申請に関わる活動とともに、社会問題としての過労死を考え、社会に発信しようとしてきた2年間の活動を経て、その後に訪れたある転機によって、私の視点が大きく変わることになりました。実はこの視点の変化という側面は昨日まとめながら判ったことでした。それまでは単に人生のステージ(場面)が変わっただけのことだろうと思っていたのですが、こうやってあらためて検証した結果、これはまぎれもない視点の変化だと気づきました(^^)。そして心の再生プロジェクトの最初の概要が見えてきたのが今年に入ってからです。遺族の自助会ではない、労働関係の機関と連携する活動でもない、なにか悲しみとか喪失体験を癒す方向に特化し、かつ、遺族に囚われない何かをしたい、そんな思いが湧き出るようにあふれてきました。そしてそれが実現に向けて大きなステップになったのが、『ありがとう、もう大丈夫』でした。今年の2月、新聞に文芸社が載せた「出版フェア」の広告を見て、出版という考えがふと浮かびました。そして原稿募集という文字が私の目に入ってきました。文芸社の名前は、パートナーの知り合いの方のホームページを見たときに目にしたのが最初です。その方が書いた「音楽は体力です」という本の出版元が文芸社だったころから、記憶に残っていたのです。私は即文芸社に連絡をとって、アポを取り、原稿の執筆を始めました。そしてできたのが、この『ありがとう、もう大丈夫』だったのです。ちなみにこの方はパートナーの出身校の東京理科大の研究室の後輩に当たる方です。この研究室の担当教授の方はおりしもパートナーと同年代の50代で亡くなりましたが、そのお人なり、と指導力、研究の素晴らしさから教え子に慕われ、研究会の同窓会が彼の死後十数年にわたって毎年行われています。その同窓会に私はパートナーの他界後参加するようになり、今年も参加したのですが、そのとき、この心の再生プロジェクトの概要についてスピーチをしました。まだ具体的な形は見えていなかったのですが、思わず口にしたのです。そのとき同窓会に来ていた皆さんが拍手をしてくださいました。この拍手に後押しされて、このプロジェクトは始まったともいえます。考えてみると、私の中で起こった視点の変化が、こういったパートナーとつながっていた人たちの後押しで、具体化していったのです。物事というのは、こういう風に自分で決めるというよりも、外側から仕掛けられて出来上がっていくのかもしれません。心のプロジェクトはパートナーがつながっていた同窓会ノメンバーとのネットワークによって一つの石が投ぜられました。そしてその投げられた石は、さらに波を呼んでいったのです。これはたまたま偶然にできたものだろうか、とは思いません。多分こういうことはすでに決まっていたのだと思います。しかし、私は当時自分の直感におもむくままに行動していました。そこには人のため、とか誰か具体的にイメージがあってその方のために、という動機は一切ありませんでした。ひとえに、自分のためだったのです。しかもそれは何かしたい、という根源的な動機だったことも事実です。そして今心の再生プロジェクトもおかげさまでホームページもでき、いくつかのイベントもこなすことができ、ありがとうトークも3回目を迎えます。決して大きな規模ではありませんが、私はこれを誰かのため、とか社会や世のためと位置づけて活動するつもりはありません。自分は何故、この時期にこの年齢で長年連れ添ったパートナーとこのような形で別れなければならなかったのか、もしそれが運命あるいは自分で決めたことならば、では私はこれから何を求めて、どこへ向かっていくのか、これについて私はまだ最終的な答えを得ていません。その問いを発し続けながら進んでいくことが、何より大事なことだとあらためて感じ始めています。