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小人

小人

見ると観る

(見ると観る)

英語で見るとは、大まかに see, look, watch がある。

seeは見えている状態
lookは、それに加えて特定の対象物に焦点を合わせた状態
watchは、それに加えて対象物の動きを逐一目で追う状態

従って(see<look<watch)の関係が成立する。「<」で示されるのは行為に要する「注意力・集中力」の多寡である。

ここで瞑想における見るを考えると、まず字は見るより観るの方がよろしい。観自在菩薩の観である。観には超然としたクールさ、マインドに絡まない一定の距離感が感じられる。観を辞書で引くと・・・
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〔仏〕 自分の心をみつめ、仏・菩薩や象徴的像、宗教上の真理を出現させ、直観する修行法。
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などとある。やはり観の方である。

では瞑想中に観ずるとはどういう事か。それは思考や感情を見つめることでは全くない。それをやっても意味がないし、時間とエナジーの無駄だ。絶えず去来して留まることのないもの、非本質的なもの(=ゴミ)を観てもしょうがないということだ。観ずべきは去来しないもの、不変の本質、即ち、「観じている意識ソノモノ」である。従って観に対象物は無い。意識ソノモノで在ること即ち「観」なのである。

もし対象物がある瞑想をしているなら、それは依然として「見る」の方であって、日常の視覚のノリをそのまま引きずった行為と言わざるを得ない。

では観るには対象物を見ることはできないのか。いやいや、見ることは充分できる。超然としている分「見る」より良くできる。しかし、観るは対象物に興味がない。言い換えれば、対象物に全く依存しない。観るは自分自身を観ること、「観」自身で在ることで完結・充足している。見るは外、観るは内。見るから観るへ、それこそ瞑想に必須なる「意識の大転換=シフト」ではなかろうか。

では瞑想の観るは英単語のどのカテゴリーに入るだろうか。これはちょっと複雑である。何が複雑かというと、瞑想では対象物に集中はしない。しないにも関わらず意識はビンビンにクリアーにしておかねばならない。従って、単語でいくと、seeの更に左側の焦点がぼやけ、くつろいだ観でありつつ、watch以上の油断無さを合わせ持つのが瞑想の観である。リラックスして、しかも醒めている。「クールな炎」と呼ばれる所以である。

( ◯・・・・・<see<look<watch<・・・・・◯ )

その「炎」を如何なる状況に於いても消さないように守り育てること、それをして瞑想修行と言う。

■ 「観」とは、シンプルに「意識として在る」ことである。

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さて、OSHOの翻訳でよく「見守る」とあるが、あれは完全な誤訳ではないのか。実にピントのズレた言葉である。まず「見る」がいけない。「守る」は更にイケナイ。いったい瞑想中に何を見、何を守るというのか。

瞑想とは徹頭徹尾「観」に留まり、思考・感情全てを流すことである。従って何も見るものも守るものも無い。もし「守る」ものがあるとすれば、それは唯一「観」ソノモノである(思考・感情に巻き込まれない留意を保つということ)

●「悟りを求めず、迷いを払わず、八万四千の雑念が起滅しても、起滅するに打ち任せて嫌わず追わず、鏡に影の映ると思い、一切を取り合わぬことが肝要である。」 ~澤木興道老師の言葉より

懐中電灯と光源に例えるなら、懐中電灯は暗闇で「対象物を見る」ために外に光を照射する。しかるに方向を定めぬ光源は、上下左右360度均等に光を放つ。「見守る」とは対象性、しかるに「観ずる」は非対象性にして全方位性。従ってその性質上個別の対象物だけに焦点を絞って積極的に関わることはない。シンプルに常に光源として在ることが光源たる性質である。換言すれば、光源たるためには対象物さえ一切不要なのである。これがために「一」或いは「不二」----即ち非二元性・アドバイタと呼ばれてきたのではなかろうか。(但し、対象物に関わるべき時には自在に関わることが可能なのは言うまでもない)

その光源(=観=純粋意識)として在る気構えの継続を留意と呼び、留意徹底する者をして初めて修行者と呼ぶ。その“光”も最初は弱々しいが、修行が深まるにつれて少々のことではビクともしない松明となるだろう。

■ 対象物への光の照射から、光ソノモノへの帰還------回光返照(えこうへんしょう)

修行とは意識を向ける方向を180度逆転し、意識の源(本来の面目)に気付き、如何なる状況に於いてもソレであり続けようとする努力である。

▲ 見守るは「外」 ● 観ずるは「真中心」

両者の喚起する印象は真逆なのである。OSHO訳本中の「見守る」の殆どは、「観る」に変えられて然るべきだろう。


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